カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 少しも無駄にならないように

    2024年2月11日
    列王記下4:42~44、ヨハネによる福音書16:1~15
    関 伸子牧師

     パンをわかちあうことは神の愛の現れであり、ヨハネは主イエスのなさったしるしを神の国の食卓へと結びつけます。ヨハネによる福音書第6章で舞台となる場所は人里離れた山の中、あるいは丘の上。ガリラヤ湖の別名であるティベリウス湖は皇帝ティベリウスにちなむローマ式の名称であってヨハネ福音書だけがこの名称を用います。共観福音書はイエスがここに来られた理由を明らかにしています。主イエスは休息と祈りの場を求めて静かな所に退かれました。バプテスマのヨハネがヘロデによって斬首され殉教した直後のことでした。

     群衆はそんなイエスの心も知らずに押し寄せてきました。ちょうど過越の祭が間近に迫っていました。翌年の過越の祭にイエスはエルサレムに上り、神の小羊として十字架にかけられることになります(11:55)。

     「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」(3節)という表現も、ヨハネだけのものです。この先の32節以降にモーセとイエスの対比が出てくるので、情景としては、シナイ山でモーセが律法を与えられた故事にちなんで場面が想定されていると思われます。つまり、モーセが律法を与えたのに対して、イエスは新しい契約として命のパンを与えるお方である。あるいは、イエスは命のパンそのものでありモーセを超える。そのためにも、「ユダヤ人の祭りである過越祭」に重ねる必要がありました。ここでもヨハネは、イエスの出来事を出エジプトの出来事と重ね合わせ、命のパンとしてのイエスを強調します。

     主イエスは弟子たちと一緒にいましたけれども、人々を見て、彼らが空腹であろうと心配します。主イエスは、目の前にいる大勢の群衆の飢えというものを深く心に留めておられます。「果たして弟子であるあなたたちはどうか」と問うておられるのではないでしょうか。それは、現代の私たちへの問いかけでもあると思います。経済大国と言われる日本においても飢えの中を生きている人がたくさんあります。また多くの外国人、とくに難民が、日本の中で十分な衣食住がなく日々の生活に困っていることも覚えます。世界では戦争が終わらず、市民はその犠牲となり、生きることに困難を覚えていることに心が痛みます。

     フィリポは「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」(7節)と答えました。1デナリオンは労働者の日給で、仮に5千円とすると百万円となります。フィリポがそう答えた後、アンデレはこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人ではそれが何になりましょう」(9節)。「五つのパンと魚二匹」はわずからもの、小さいものを象徴しているかのようです。5千人の人々を前にして、それらは一体何の足しになるのか。アンデレもフィリポと同じように悲観的です。しかしアンデレは、焼石に水のようなものであることを知りつつ、少しでも積極的なことを見つけようとしています。ここにひとかけらの小さな信仰を見る思いがします。そこから主イエスのしるしが始まっていくのです。

     主イエスは弟子たちを通して行動を起こします。アンデレの言葉を聞いて、「人々を座らせなさい」と言われました。その場所には草が多かった。およそ五千人の人々がいた。食べるために座らせることは、人々を自由で尊厳ある存在として迎えることです。僕としてではありません。僕はいつでも主人に仕えられるように立ったままで急いで食事をとらなくてはならないからです。主はそこにあった少しの食料を取り、感謝して、それを分け与える。それを増やしたとは記されていません。しかし、全ての人々に行き渡った。ヨハネによると、全ての人々が食べただけでなく、余りさえ出た。女性や子どもたちをの数を入れると一万人以上の人がいたと思われます。その人たちがみんな満腹になりました。それだけではなく、その残りを集めてみると、「12の籠がいっぱいになった」(13節)。最初よりも増えたのです! あまりは12の籠いっぱいになった。これは意味深い数字です。12はイスラエル12部族、12弟子、民全体を指しています。

     ここで、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた主イエスの言葉に注目したい。「少しも無駄にならないように」、これはヨハネによる福音書の中でもっとも頻繁に用いられている言葉です。たとえば、先ほど子ども説教で読んだ「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この「滅びる」という言葉と「無駄にならない」という言葉は、原文では同じ言葉です。主イエスは自分を王にしようと思った人びとの願いは拒否した。しかし、その人びとをご自分の恵みの手の中でしっかりとらえようとなさった。滅びないようにしてくださったのです。

     同じ第6章の言葉で言えば39節、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである」。皆さんのことです。皆さんひとりひとりを主イエスは失いたくないと言われるのです。あなたがたを無駄な者にはしたくない。神のみ前に皆等しく値打ちある者として立ち、生きてほしい。だから私の甦りのいのちをあなたがたに分け与える。それは溢れて、12の籠に満ちるほどである。
     主イエスが命のパンを与えるだけでなく、イエスご自身が命のパンであること、イエス・キリストの十字架の死と復活の故に、私たちが生かされていることに感謝し、大切にしたいと思います。お祈りをいたします。