幸いな人の昼と夜
2025年6月15日
詩編1編1~6節、マタイによる福音書5章1~12節
濵崎 孝_引退教職者
詩編第1編は、「幸いな者(アシュレー)」と語り始めますが、英訳聖書(新改訂標準訳など)では、Happyという祝福の言葉から始まっています。そして、詩編第2編の終わりの聖句も、ハッピーから始まり、「幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は」(1節c)と語りかけています。ハッピーという祝福から語り始める詩編があり、ハッピーという祝福を語りかけて終わる詩編もあるのですね。皆さん、聖書は創世記から始まりますが、創世記は神さまが世界とそこに生きるものを祝福した……と語りだしています。また、聖書はヨハネの黙示録で終わりますが、黙示録はその終結部21~22章で、神さまの祝福の完成を語っているのです。ですから、私どもキリスト教会が聖書から教えられてきたのは、慈しみ深い神さまの祝福で始まり、復活のキリストが祝福してくださるハッピーエンドの人生があるのだということです(ヨハネの黙示録14章13節参照)。教会で信仰生活を送る人たちが幸いな人であり、キリスト者こそがこの上なくハッピーな人生を祝福されるという聖書の語りかけを憶えましょう。
詩編1編の祝福の言葉、「幸いな者」は、注目すべき語りかけです。何故なら、新約聖書のマタイによる福音書5章1節以下に保存されているキリスト・イエスさまの「山上の説教」の語りかけと似ているからです。イエスさまの説教は、「心の貧しい人々は、幸いである(マカリオイ)」(3節a)から始まって、多くの祝福を語りかけたのでした。詩篇の作者は、旧約時代の信仰者ですが、まるで新約のイエスさまのように、隣人に祝福を語りかける人になり、いわば人間回復を祝福されていたのです。こういうハッピーは、励まされますね。私どもは、隣人に祝福を語りかける人になり、そうして少しでもイエスさまに似る者へと導かれたいのです。
詩編の信仰者の言葉は、こうでした。「幸いな者/悪しき者の謀 に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。/主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。/その人は流れのほとりに植えられた木のよう。/時に適って実を結び、葉も枯れることがない。/その行いはすべて栄える」(1~3節)。詩人は、「嘲る者の座に着かない」という祈りの路づくりをする人こそ、神さまから祝福されると信じていたのです。教会堂の椅子に、礼拝者と共に座っている皆さんは、神さまから祝福していただけるような座に着いているのです。そういうことの積み重ねは、「時に適って実を結び」で、ハッピーな出来事に出会うに違いないのです。
信仰の詩人は、「主の教えを愛し」(新共同訳)、「主の教えを喜びとし」て生きる人は、「幸いな者」だと語りかけましたが、そういう人は、「主の教えを昼も夜も唱える(ハーガー)」と言いました。カトリック教会のバルバロ訳聖書は、「小声でささやく」と翻訳していました。前の新共同訳聖書では、「口ずさむ」でした。主の教えを愛する人は、つとめて、主ヤハウェの教えを書いた小さな板を携えたりして(ハバクク書2章2節参照)聖句をどこでも唱え、また讃美歌を「口ずさむ」(新共同訳)ことを喜びとしたのです。
「唱える」というところを英語の聖書は、meditateと訳しています。これは、ラテン語の「熟考する」から来たもので、「瞑想する」、「黙想する」、「静思する」ということを表わします。ルカによる福音書に、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2章19節)とあります。それが、マリアさんの信仰生活におけるメディテイト……メディテーションです。心の湖に波紋をもたらす神さまからのメッセージを、マリアさんは心に留め、静かに想い巡らしたのでした。マリアさんも、「主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人」だったのではないでしょうか。そして、聖書は、マリアさんのように落ち着いて、神さまの語りかけを一所懸命メディテーションする人こそが幸いだ……と教えているのです。
信仰の詩人は、「主は正しき者の道を知っておられる」(6節a)と言いました。「知っておられる」には、ヤーダという深く知ることを意味するヘブライ語が使われています。創世記4章1節に、「人は妻エバを知った」とありますが、それもヤーダです。私どもには、いい加減な知り方が多いですが、それとは質的に違う、とても深い知り方があるのです。昼も夜も主の教えを愛し、それを喜びとして従う人の道を、主イエスさまは十字架と復活の愛で、その限りなく深い愛で知り、見守り、祝福してくださるのだという偉大な恵みを信頼しましょう。
けれども皆さん、「神に逆らう者」(1、4、5、6節)、「罪ある者」(1、5節)、「傲慢な者」(1節)は、そういう深く知り給う神さまの愛を受けることが出来ないと忠告されています。「風に吹き飛ばされるもみ殻」(4節)のような人生にしてしまったら悲惨だからです。詩編には、「いかに悲惨なことか/神に逆らう者の道は」という語りかけもあるのです。どうか私どもは、主ヤハウェ、主イエスさまの教えを愛し、讃美歌を口遊むことを昼も夜も喜びとした人々の、そのずっしりと重い手応えのある幸いでハッピーな信仰生活を継承して行きましょう。ヤハウェ・イルエ!