イエスは良い羊飼い
2020年9月20日
詩編23:1~6、ヨハネ10:1~21
関 伸子牧師
ヨハネによる福音書のなかで、主イエスは、旧約聖書に用いられている象徴表現を用いられますが「パン」と「光」の後に、今度は「羊飼い-牧者」を用いられます。第10章2節から5節はパレスチナでの羊を飼う生活、牧畜生活が背景になっています。朝、羊飼いたちは自分が痛くされている主人の羊をその囲いから連れ出して、緑の牧草を食べさせ、運動させ、また清い水の流れに導き、渇きをいやし、夕方には間違いなく主人の囲いへ連れ帰る。このように正規に主人から委託された羊飼いは門から堂々と入る。そして自分の羊の名を読んで連れ出して先頭に立って行く。羊はその声を知っているのでついていく。しかし、正規ではない羊飼いは門からではなく他のところから乗り越えて来る。イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に語りました。しかし、彼らはその話が何のことが分からなかった。なぜか。ファリサイ派の人々は、自分たちがまさか盗人や強盗だとは思っていないから、それが何のことなのか全く分からなかったのである。
詩編第23編の作者は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と謳っている。この詩は神さまを羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として歌ったものです。人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、主は確かに「わたしの羊飼いだったし、今もわたしの羊飼いなのだ」と言って喜んでいるのです。
ところで主イエスは、「わたしは羊の門である」(7、9節)とも言われます。羊の門というのは、牧者が羊をそこから出したり、また導き入れたりするところである。その門を通るから羊飼いなのであって、他から出入りするのは強盗である。この門を通って入る者だけがほんとうの羊飼いである。牧師はイエスという門を通って、すなわちイエスの任命によりはじめてその資格を与えられる。その資格があるだろうかと迷いが生じることがあるが、そのような私を支えてくださるのは神である。これは、信徒の場合にも言えることです。私たちはよく、「私のような者は」と自分を卑下します。それも必要だと思いますが、信仰生活においては、イエスにあって自分であるという信仰が大事ではないでしょうか。イエスのゆえに信じる者とされており、今、キリストの証し人として立たされている。私たちの生きる根拠が常に主イエスご自身にあることが大事なのです。
次に主イエスは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11、14節)と言われます。良い羊飼いとして自分の羊を守るためには危険を冒しても自らの命を捨てる。愛とは何でしょう。単に表面的、一時的にやさしくする、いたわるということではなく、最後まで相手を見捨てないで、いざという時に相手のために自分の命を捨てることができるかどうか。それは主イエス・キリストにのみできることだと思う。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(16節)とは、直接にはユダヤ人ではない異邦人キリスト者のことを指しています。イエスはそのような人々の牧者にもなり、自分とその父なる神のことを教えると、その人々もイエスに聞き従うようになる。人々が一つの群れになることができるのは、羊飼いイエスが一人だからである。また、イエスが父なる神との間に一体性を保っているからこそ、この世においても人々の中で一体性を実現できる。その時の一体性は、あたかもすべての人々が文字どおり「一人の羊飼いになる」ほどに、一人の羊飼いのもとに緊密に結集することによって完成するのである。後にイエスは、すべての人を父なる神と自分の内にいるようにしてくださいと父なる神に祈るが(ヨハネ17:21)、この祈りこそ、イエスという一人の羊飼いにすべての人々が集められることを示している。
主イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(17~18節)と言われる。ここで「命」は「魂」と言い換えられている。イエスは全身全霊、何一つ残さずに死ぬ。それは父なる神の計画であり、それをイエスが実行することのゆえに父なる神はイエスを愛する。しかし、父なる神は、再びイエスに命も魂も新たに与えることにおいて、一層大きな愛をイエスに与えるのである。こおうして、イエスに従う人々も一層豊かな命を持つことができるようになる。
後の裁判において総督ピラトはイエスに対して、自分はイエスを釈放する権威も十字架に掛ける権威も持っていると言うが、イエスは十字架に掛けられて自らの魂を捨てる権威を持ち、その後に死から解放されて再び魂を受ける権威を持っている。しかし、「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」(19節)と記されていることから、イエスの話を聞いて分裂を起こしたユダヤ人たちは、現時点ではまだイエスによる命懸けのわざの対象ではないことが分かります。私たちは福音に堅く立ち、大牧者である主イエスを仰ぎ見て、その声に聴き従う日々を送りたいと願います。その日々が祝されますように。