これに聞け
2021年3月14日
出エジプト24:1~11、マタイ17:1~13
関 伸子牧師
主イエスは三人の弟子たちを高い山に連れて行き、天の唯一の王国とその栄光を見せました。山の頂に立ってその見晴らしに心を奪われる時に、私たちを取り巻くものとも一つとなる体験をすることがあります。子どもが生まれるのに立ち会う時、家族との食事、あるいは礼拝中や静かな部屋で祈っている時にも起こるでしょう。今まで望んでいたことがすべてここにあるという瞬間です。三人の弟子たちは、主イエスの姿が彼らの目の前で変わり、その顔が太陽のように輝き、モーセやエリヤと語り合うのを目の前にしました。彼らはこの時が永遠に続いてほしいと願った。
このとき、ペトロは「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」と申し出ます。しかし、この提案は取り上げられることなく、彼らを覆った雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という指示が与えられました。
出エジプト記第24章1節以降で、モーセはアロン、タダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に山の麓に登って行ってイスラエルの神を仰ぎ見ました。9節から11節で最も興味深いのは、モーセに同行した人々が、山上で神の顕現に接し、神が立っておられるところは大空のような清澄さで輝いていたことです。この世にはない美しさの中で、彼らは神を見、かつ食べ、また飲むことができた。彼らは天上の会食にあずかって神との契約に入ったのである。主イエスが山に登り、顔を光輝かせるという点において、山に登り、律法を授かり、顔を光り輝かせていたモーセと似ていると思います。
ペトロを包んだ雲からの声は、「これはわたしの愛する子、・・・・・・これに聞け」と教えた。神が介入するこの様子は、主イエスの受洗の時に神が天から声を響かせたとき(3:16~17)とよく似ています。神はイエスの本性を明らかにし、さらに弟子たちに「これに聞け」と指示します。この言葉は受洗の時には語られていません。モーセ、エリヤと共に語るイエスを見て「主よ」と呼びかけたペトロのイエスに対する理解に間違いはありません。しかし、三つの仮小屋を作ろうと提案したことは、イエスをモーセ・エリヤと同列に並べることになります。イエスは旧約聖書を代表する二人と対等なのではなく、旧約聖書を成就するメシアなのである。ペトロの理解には不足があります。
神の言葉を聞いて恐れる弟子たちにイエスは近づきます。マタイ福音書での「近づく」は、もっぱら畏敬の念を抱きながらイエスに「近づく」人に使われますが、この箇所と第28章18節のみ、イエスが主語となります。28章18節では、復活のイエスが弟子たちに近づき、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して、弟子を宣教へと派遣します。変容は、イエスが神の子であることを明らかにするだけではなく、山を下りて宣教という日常へと戻ってゆく弟子たちを励ますための出来事でもあったのです。
しかし、この世にあって、神の声を聞くということは、決して楽しいことではない。弟子たちは、これを聞いて恐れ、顔を地に伏せたとある。しかし、イエスは恐れている弟子たちに近づいて、手を置いて言われる。恐れの中で、イエスとの出会いが起きる。「信仰は賭けである」とパスカルは言ったが、そのように信仰に賭けていくことに恐れがあると思う。しかし、その恐れの中でこそ、私たちに手をおき、恐れることはないと言ってくださるイエスに出会うことができるのである。この確信こそが、私たちの夢であり希望なのである。
神の臨在を知り、恐れて身を伏せた弟子たちにイエスが近づく。この「近づく」は、マタイ福音書に多く現れる。だいたいは人々に使われ、イエスに畏敬の念を抱きながら近づくことを表すが、ただ二回だけイエスに用いられる。今日の箇所と第28章18節である。28章ではよみがえったイエスが弟子に近寄り、宣教へと派遣するにあたり「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束する。7節はマタイの挿入だと言われている。よみがえったイエスが弟子に近づくときにのみ使う言葉をここに挿入したのは、変容の出来事を復活と結び合わせたかったからだ。よみがけったイエスは、いつも弟子と共にいる。変容はただイエスの神秘を垣間見させただけでなく、宣教に従事する教会を励ます出来事である。
山上の栄光は、下山するとただちに現実の苦難にひきもどされる。しかし私たちは「暗い所に輝くともし火」(ペトロ二1:16~19)をいただいている。それによって、困難な生活を耐え抜く力が与えられる。これが信仰者の生きる姿である。複活の前ぶれの主の変容は、恐れることなく(7節)、信仰を強く持ち、その宣教に伴う困難に立ち向かうための促しである。変容を経験することにより、きらりと光る瞬間を経験して弟子たちは励まされた。こうした瞬間が私たちに与えられているのは、神が遠く離れ、すべてが空虚で無駄に思われるような時に、私たちがそのような瞬間を思い出すことができるためです。私たちも主の変容の物語に励まされて、なお主に従って行きたいと思います。祈りをいたします。