カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 信仰によって生きる

    2021年10月3日
    出エジプト6:2~13、ヘブライ11:17~22
    関 伸子牧師

     世界聖餐日のこの日、世界の諸教会の多様性を神からの祝福として受け入れ、私たちが一致してあなたの福音に生きる者でありたいと思います。その基となるのは「信仰によって」生きることです。ヘブライ人への手紙第11章3節以降に「信仰によって」という言葉が繰り返し使われています。

     ヘブライ人への手紙第11章3節以降、「信仰によって」という言葉が何度も繰り返され、17節から22節に、アブラハムが息子イサクをささげよとの神からの命令を受けて、最も厳しい試練に直面したこと(創世記22:1~22)が記されています。アブラハムの試練は、その子イサクをささげることでした。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に生きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして捧げなさい」という神の声があった時、アブラハムはことばでは言い表せない深刻な苦悩を味わったに違いありません。なぜなら、アブラハムにとって一番大切な子をささげなければならなかったからです。神の約束によると「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」(18節)ことになっていた。つまり、イサクの子孫の数が増え、ついに大いなる国民となり、これによってすべての国民が祝福を受けることになっていた。すべてはイサクの生命にかかっていたのである。ところが神は、こともあろうにその約束の子をいけにえとしてささげよと言うのである。こんな不条理がどこにあるでしょう。

     この時アブラハムはどうしたか。彼は神のことばをそのまま受け取り、最後まで神に服従した。ただ神の命に従って、ひとり子イサクをささげたのです。アブラハムの徹底した従順な信仰は、「神が人を死者の中から復活させることもおできになると信じたのです」(ヘブライ11:19)という、神の偉大な力に対する徹底した信仰と固く結びついているのである。これは、上から、神から起こった奇跡です。真の信仰とは、この奇跡に生きるものである。

     死のかなたを見つめるイサク、ヤコブとヨセフ。「信仰によって、イサクは未来のことについても、ヤコブとエサウを祝福しました」。創世記を見ると、イサクは死期が近いことを感じて、ヤコブに「あなたは兄弟の主(あるじ)となり 母の子らはあなたにひれ伏すように。あなたを呪う者は呪われ あなたを祝福する者は祝福される」(創世記27:28~29)という祝福を与えた。この祝福は、その時点では現実となっていない未来のことについてであった。すなわち、「目の見えないものを確信させる」イサクの信仰が、この行為をなすように導いたのである。

     ヤコブも死が近付いた時(創世記47:29)、ヨセフに「この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地の間中で、豊かいにふえますように」という祝福を与えた。ここにも神の約束を信じて、ひたすらそれを待ち望む信仰が表明されている。ヨセフの生涯は文字どおり試練の連続であった。このヨセフは臨床の時、兄弟たちに「私は間もなく死にます。しかし神は必ずあなたがたを顧み、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。その時には、私の骨をここから携え昇ってください」(創世記50:24~25)と言い渡した。ヨセフはその生涯の大部分をエジプトで過ごしたが、彼は信仰によって、エジプトが自分にとって寄留地にすぎないことを知り、ひたすら神の約束を仰ぎ望んだ。

     この三人に共通していたのは何か。彼らは、約束の地に入る、大いなる国民になるという神の約束が必ず成就するものと信じて疑わなかったことである。彼らは決して現状に絶望することなく、希望を抱きつつ死に臨んだのである。

     先ほど出エジプト記の第6章2節から13節をお読みしました。モーセを召し出す神の言葉は実に力強い。モーセはそのとおりを語る。しかしイスラエルの人々は、それを聞こうとしない。モーセは神と人との間に立っている。何より強く響くのは、3回繰り返される「私は主である」という宣言である。「私は主である」というのは、イスラエルとの契約を破棄することなく、この民の神としてどこまでも責任を負う、という神の決意表明である。

     ヘブライ人への手紙第11章は、さらにいくつも旧約聖書の忍耐した信仰者の歴史が記されています。その「信仰」とは何かを、詳しく語るのです。この人もこの人も、主によって呼び覚まされ完成される信仰に生きている。だからこんなふうにつまずきながらも家族を愛している。つまずきながらも教会に生きている。つまずきながらも伝道と奉仕の喜びを今学び始めている。そう言うことができるのです。

     神御自身が「私はいる」と言ってくださる。そして、「私は必ずあなたと共にいる」(出エジプト3:12)と言ってくださるのです。主イエス・キリストの父なる神が、私たち一人ひとりと共に、このようにいてくださることを力として、「信仰によって」生き、また信仰によって死にたいと願うものであります。お祈りをいたします。