主イエスに従う真の意味
2022年3月13日
エレミヤ2:1~13、マルコ13:20~30
関 伸子牧師
神の国を宣教し、悪霊を追い出す主イエスのもとには群衆が集まってきます。しかし、この人たちは必ずしも好意を持っているとは限りません。イエスを理解できない人々が登場します。それはまず、イエスのことを聞いて取り押さえに来た身内の人たちです。彼らはイエスの言動やそのイエスに引き付けられる多くの群衆を見て、イエスの異常さに気づき始めたのです。「気が変になっている」というのは、「自分の存在から外へ出てしまう」という意味の言葉です。自分の外に出てしまう。われを忘れる。おかしくなってしまう。われを忘れた人間が出てくることは身内の恥だと思ってしまうのです。だから、自分たちの手のなかにもう一度引き戻そうとするのです。
続いてエルサレムから下って来た律法学者が登場します。彼らは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と断定するのですけれども、この断定が権威ある判断であることが、彼らがわざわざ「エルサレムから来た」者であったと断っていることによって強調されています。
22節に「ベルゼブル」とあります。「悪霊の頭」の名前。悪霊の親分です。この悪霊の親分がベルゼブルという名前でした。この名前は、誤って「蠅の王様」という意味だと理解されたこともあります。しかし、正確な理解では、これは「家を支配する者」という意味のようです。人の心の家を支配するのです。悪霊は神に背き、私たちを支配しようとする力です。その悪霊の頭に対して主イエスが登場します。
主イエスは心のかたくなな律法学者たちに対して、たとえを用いて彼らにとって身近なものに言及しつつ説明しました。サタンや悪魔と呼ばれるものは告白を得意とする存在であり、共謀してイエスや神に従う人々を非難します。ここでイエスがサタンに言及したのは、律法学者たちがサタンのようにイエスやイエスの弟子たちを告発するためにやって来たからです。王国と家のたとえも、イエスは律法学者たちにとって身近な例を挙げて、彼らに応答しています。律法学者たちにとって最も重要な王国の分裂は、ソロモンのイスラエル統一王国以後の分裂でしょう。王国は分裂すると立ち行くことができないのです。
「まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(27節)。主イエスご自身、ここでもユーモアをもって、ご自分を押し入れ強盗に譬えておられます。しかし、これは、強盗以上に思いがけない侵入者です。すでに侵入して人の心を支配していた罪の力を追い払うための、新しい神の侵略です。主イエスはご自分の力で、力づくで、今、私たちの心のなかに踏み込んでこられます。私たちは喜んで受け入れたい。それこそ信仰です。
「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠の罪に定められる」(29節)とあります。この言葉は何を意味するのでしょうか。28節では「人の子らが侵す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と言われたのです。どんなに神を汚すような不信仰なことを言っても赦してくださるという約束でした。ところが29節では、許されない罪があると改めて言われたのです。それは聖霊を汚す言葉、今ここで働いているせいなる霊を汚す言葉を口にする罪です。主が汚れて霊に取りつかれておられると思い込み、そう言い張る人びとに対してこの言葉を語られたのです。それは、御自身において働く聖霊を否定することです。この「聖霊を冒涜する」という言葉は、聖霊を汚し続けるという意味を持ちます。一回だけではないのです。そのような罪が私たちにも起こり得る。主がそう言われるのです。
このたとえにすぐ続いて宣言されました。「よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」(28節)。赦しの根拠は、このご自身の解放との戦い、その勝利にあります。ここでは「罪」と「冒瀆の言葉」とが並んで語られます。罪とは隣人に対する罪であり、冒瀆は神に対する罪です。ハイデルベルク信仰問答で言えば、神を愛することも隣人を愛することもできない罪です。人間の悲惨はそこに生まれます。
主イエスは、ここでとても真剣になっておられます。真剣に神の国、神の支配確立を語り、そのために戦っておられます。身内の外で、律法学者の手の届かないところで、真実の私たちの家、父なる神のもとにある家を作るためにです。神は、私たちの魂のもっとも深いところにおいて、私たちの真実な心を求めておられます。私たちには、神の赦しがあります。このことを可能にするのは聖霊です。私たちの心に悟りを与える神の力です。主イエスは私たちを赦すために来られました。主イエスが作られた家、神の国は、力をもって私たちに、神に作られ、神に罪赦されて生きる者として、地上に生きることができるようにしてくださったのです。とても大きな恵みに感謝します。祈ります。