惑わされないように
2023年1月29日
ハガイ書2:1~9、コリントの信徒への手紙二6:14~7:1
関 伸子牧師
一年で最も寒い時期であるにも関わらず、みなさんが礼拝堂に集い、またライブ配信を通して礼拝に出席されていることにとても励まされます。まさにこれが「神の民の礼拝」であると思わされます。
神の民の生活とはなんでしょう。それは神が中心にいる生活です。礼拝も神の臨在を中心にして集まります。それなしには何も始まれないのです。ハガイ書第2章9節「この新しい神殿の栄光は以前のものにまさる―万軍の主は言われる」は、神の普遍的な支配が語られます。まず神殿を再建して、神を大事にする生活を取り戻しなさい。それが預言者ハガイのメッセージでした。貧しいとか、困難な時代であると言ったことは言い訳にはなりませんでした。
今日の教会もつねに「生ける神の神殿」(コリント二6:16)としてのあり方が問われています。そのことをパウロの書いた手紙のひとつであるコリントの信徒への手紙は、信仰の内容を書いたあと、その信仰による実際生活の勧めを書きます。
ところが、今日のコリントの信徒への手紙二の第6章14節以降は、その前から読むと、突然ここで話題が変わったように思うことが記されています。そうは言っても、その話題はやはりコリントの人々に大いに関係があるものです。この手紙が書かれた時代には、容易ならない悪徳がはびこっていました。ことに、コリント教会のあるコリントの町は、頽廃していたことで有名でした。その頃、コリントするということばが流行っていて、不道徳な生活をすることを意味していました。コリントの教会もそれらの影響を受けて、多くの問題をかかえていました。
ここでのパウロの注意と警告はそのためになされています。「あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません」と言っています。くびきを共にする、というのは、動物を同じくびきにつないで、働かせることです。それは、信仰者が、信仰のない人との間で生活する時に、考えなければならないことにちがいありません。パウロは、本当にきびしい調子で言っています。不信仰者と、釣り合わないくびきを共にするな、のあとに、正義と不法となんのかかわりがあるか。キリストとベリアルとは悪の王の名です。ここに言われていることは、どれももっともで、それを否定する人は、だれもないのではないか、と思います。しかし、それなら、信仰を持っている者は、どのように生きたらいいのでしょうか。
これらのことを読んでみると、聖書は、この問題について、厳しい態度をとりながら、それが決して形式的なことではなく、いかに細かい配慮をもって、この重要な問題を取り扱っているかが分かります。コリントのような町にあった教会こそ、ほんとうに、その問題の意味を知ることができるからです。
16節になると、突然、話しが変わります。16節後半から18節までは、旧約聖書の自由な引用です。神殿の中心は、礼拝です。礼拝によって、神の御臨在を確信するのです。聖さのもとは、そこにあります。この礼拝は神がお求めになったものです。神が招いてくださって、私たちに会ってくださるのです。それならば、その恵みは、すべて神から出るものではないでしょうか。
そこで17節が意味を持ってきます。「離れよ」というのがここでの中心になる言葉です。キリスト者が神の恵みとして、さまざまなこの世における恵みを味わうことは罪ではありません。ですから「離れよ」と言っても、それは山に逃れて世捨て人になることでも、社会から逃げ出して修道院に入ることでもありません。そうではなく、この世の人々の不信仰や不道徳のとりこになったり、それに引きずり込まれたりしないように、そういう罪とのかかわり合いを避ける意味での分離なのです。
最後の18節は、エゼキエル書第20章34節ほか、数か所からの引用です。神に受け入れられた者に対して、神は、その父となり、その者らを、むすこ、むすめとしてくださるのです。潔くないものに触れるなというのは、ただの道徳の教えではありません。キリストによって救いを受けた者に対する、神の願いです。
7章のはじめには、その結論が勧告として記されています。しかも、その勧告は「愛する人たち」と呼びかけます。聖さの維持の歩みが勧告者であるパウロ自らが一歩一歩あゆんでいることがとても力強い言葉となります。
キリスト者の信仰生活は、独自の聖さを持っていました。しかし、このところ、その特性が失われてきたように感じられます。信仰の中心が何であるかがぼやけてきているように思います。そのために、神を神とすることが弱くなり、そのために、神に仕える者としての聖さがなくなってきたのではないかと思います。救われた者は、自分の救いを全うするために、聖なる生活を熱心に求めたいと思います。お祈りします。