墓の向こうに走り抜ける
2023年4月9日
創世記9:8~13、ルカによる福音書24:1~12
関 伸子牧師
Happy Easter! 主イエスは復活されました。そのことをルカ福音書は、「主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると」(24:3)と、主イエスの遺体を見失うことから語り始めます。そのようにして描かれるルカの復活物語の基本線は、「途方に暮れている」という人間の深い困窮への福音です。
復活の前の日、女たちは「安息日には戒めに従って休んだ」とあります。誰も働けない時、それは虚無の力が働くのみ、そういう一日が、葬りの日でした。それが今、復活の朝によって明けたのです。それは日曜日。「週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った」(1節)。主の日、女たちのわずかな希望は、死体にせめて香料を塗ることでした。この女たちは、罪深い人や、あの不当な望みを息子にいだいて、主イエスから叱られた女です。キリストのお選びになった使徒たちが意気消沈し、逃げ隠れていた時に現われ、死の墓に赴いたのは、あまり役にたたないと思われていた人びとでした。あえて小さな者たちが復活の証人として選ばれたことは神の恵みの現れるために他ならないと思います。希望は向こう側からやってきました。
イエスの遺体が墓になかったのは、イエスが生きているからです。「なぜ、生きておられる方を使者の中に捜すのか」(5節)と、主の使いたちはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアに尋ねます。この問いは、今日の私たちにも向けられ続けています。
二人の天使の言葉が疑問形であるのは、神のいのちのわざに軽やかに羽ばたくことができないでいる人間の重たさや不信仰の疑いです。5~6節「なぜ捜すのか。」「ここにはおられない、復活なさったのだ。」「まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。」最初の文章は疑問文です。「捜す」という語が使われていることに注意したい。朝早く墓に行った女たちはイエスを捜しに行ったのではなく、その遺体に香料を塗るためでしょう。しかし、天使は「なぜ捜しているのか」と語りかけることによって、女の行動の無意味さを強調すると同時に、イエスを捜し始めるようにと促しています。
疑問文に続く二番目の文章は否定と肯定形の平叙文です。これが天使の言葉の中心です。ちなみに、マタイやマルコに登場する天使の言葉はルカのそれとはかなり異なっていますが、「ここにはおられない、復活なさった」は三つの福音書に共通です。平叙文に続く三番目の文章は「思い出しなさい」という命令文です。ガリラヤにいた頃、イエスが語っていた言葉を思い出すなら、「ここにはおられない、復活なさった」ことがよく理解できます。過去を思い起こさせることによって、目の前の事態を悟らせようとしています。
したがって、天使が語り始めるのは、「復活することになっている」(7節)という、神の必然性を意味する言葉です。「必ず・・・・・・ことになっている」という神の必然です。光の部分だけが神の計画に覚えられているのではなく、闇と思われるところもまた、神の計画に数えられているということを思い起こさせる言葉です。救いの道が続いています。私たちは思いがけない暗さにおいて、私たちが神の計画を見失っても、それにかかわりなく、絶え間なく、神の救いの道は続いているのです。そのような神からの接近がここに描かれています。
天使の言葉、「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか」。これによって、女たちはイエスが生前告げられた御言葉を思い出しました。女たちは復活を信じきることを抜きに、二人の人の告げる言葉を口に映されるようにしてではありますが、とにかく主の甦りを語り始めました。ああそうか、と女たちが思った時に、そのイエスの言葉は、ただの言葉ではない。それがほんとうであった、真理であった、事実であったということを、女たちは納得する。それが男たちよりも早い。その意味では、教会を支える復活の信仰の担い手になったのは、女たちでした。この後すっかり、その名を消してしまう女たちでした。
週の初めの日の明け方早く、香料を携えてイエスの墓に急いだ女たちを導いたものは愛でした。それによって、女たちは、イエスの墓が空になっていたという事実を大発見したのです。この愛と、それによって発見された事実の上、イエスをキリストと信じる信仰と、イエスのよる神の国完成の希望とが、墓を掘った岩よりも堅く据えられたのです。
弟子たちは、墓の向こうに走り抜けて、主イエスが復活されたことを告げる者に変えられます。このお方は復活なさった! 「あなたは世にあっては悩みがある。しかし、雄々しくあれ。私は既に世に勝っている」と言われる主の言葉を思い起こします。そうです、主は世に勝っておられる。主の墓を空にして、私たちの数々の失敗もすべて空にして、墓の向こうに走り抜けて、主イエスのご復活を証しする喜びに生きましょう。祈ります。