この世にまさる宝
2023年10月1日
詩編73:21~28、ヤコブの手紙2:1~9
関 伸子牧師
ヤコブは、信仰上の「きょうだいたち」に何度も語りかけています。「私の兄弟たち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。」(1節)これを直訳すると、「わたしの兄弟たち 分け隔ての中で 持つな 我々の主、栄光のイエス・キリストへの信仰を」となります。このような語順によって、貧富によって人を分け隔てすることが、イエス・キリストへの信仰と両立しないことを示しています。
これは私たちにも言われていることだと思います。
一方、1節からの語りの結びにあたる5節には「私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」と、あります。これは明らかに冒頭と対応しています。どちらも読者を「きょうだいたち」と呼びつつ命令法を使って勧めを語っているからです。しかも、冒頭部ではキリストを登場させ、結びでは神を登場させています。
「外見で判断する」するとは、「顔、外見」を「受け入れる」という意味であり、神にも、神の子イエス・キリストにも、全くそういう判断基準はありません。神も神の子イエスも、人種、性別、貧富、地位などに関係なく、つまり、その人の外見ではなく、心が善であるか悪であるかを見抜いて、霊的に判断を下すからです。
両者の間に挟まれた2~4節で教会の現状を指摘し、その前後に命令文を置き、分け隔てをすることは神の選びにそぐわないことだと戒めています。信仰と行いは分離されずに、一つにされるべきなのです。
ヤコブの時代、貧富の差が激しかったのでしょう。グローバル化の時代、勝ち組と負け組がはっきりし、貧富の差がいよいよ激しくなる時代、このヤコブの教えは、身近なものに感じられるのではないでしょうか。当時、分け隔てすることは当然のことと見なされていたのです。
しかし、教会は、裕福な者にも貧しい者にも福音を宣べ伝えたので、彼らは礼拝をささげるために同じ場所に集うことになりました。ところが、実際には「金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人」(2節)は厚遇し、「汚れた服を着た貧しい人」(2節)は冷遇するという差別が教会で起こってしまったのです。本来、神には差別や分け隔てはないのです。しかし、この世の慣習や身分が、教会に中にはいることはありました。真の福音は、それと戦い、是正していかなくてはなりません。ここで言われていることは、単に貧しい人が気の毒だから差別をしてはいけないと言うのではありません。
いのちの神を信じることはある意味で厳しいことです。ヤコブは彼の教会での経験から私たちに語ります。ヤコブの手紙は、取るに足りないとされる人々を神が優先されることに関して、とりわけ敏感です。それゆえに、誤った尺度でこのような差別をなす人々を非難します。これはイエスの真理とは正反対の尺度だからです。簡潔ながら厳しいヤコブのこの言葉は私たちにも問いかけ続けます。
「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と定められます。」(8,9節)
「隣人を自分のように愛しなさい」という律法は、レビ記第19章18節からの引用であり、このレビ記第19章では、かつてイスラエルの民がエジプトで寄留者であったことに言及され、寄留者を同胞の者と同様に愛することが明示されています。また、主イエス御自身も、神に対する愛と共にこの隣人愛を最も強調したことで知られています。著者は、神の意志としてのいわば「律法の中の律法」として隣人への愛を強調しています。
5節に「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったのではありませんか」と書かれています。神の救いは人間の力で手に入れられるものではありません。神の力に頼る者に対して与えられるのです。神による救いは、この世の富にまさる宝であるはずです。その宝を求める心を持ちたいと思います。神が貧しい者をあえて選んで、神の国を受け継がせようとなさったことの意味をよく考ええると、私たちのような貧しい者たちをあえて選んで、神の国を受け継がせようとさたっている神の深い愛を覚えます。この週の一日一日、人を「分け隔て」ないことを心に刻んで歩んでいきたいと思います。お祈りいたします。