ぶどう酒がなくなった結婚式
2024年2 月25日
詩編104:13~18、ヨハネによる福音書2:1~11
国立のぞみ教会 唐澤 健太_牧師
「ぶどう酒がなくなりました」(3節)。主イエスが招かれていた婚礼の席で、母マリアの訴えから「カナの婚礼」の物語は始まる。婚礼の席においてぶどう酒はなくてはならないものであり、ぶどう酒が尽きてしまうことは「恥」でもあったと言われる。結婚式のピンチである。また、イスラエルの人々にとって「ぶどう酒」はただの酒ではない。イスラエルの人々にとってぶどう酒は喜びをもたらすもの、神の賜物として称賛され、ぶどう酒が豊かに備えられていることは祝福と考えられていた。「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(詩編104:15)。ぶどう酒は喜びの源を意味するのだ。「ぶどう酒がなくなりました」。これは婚礼の問題だが、「喜びがなくなりました」と考えるなら、これはたんなる婚礼の宴会の問題ではなく、私たちの人生の問題である。
元日という晴れの日に激震に襲われ「喜びがなくなりました」と訴えざるを得ない人たちが確かにいる。老いを経験する中で「喜びがなくなりました」(コヘレト12章参照)とつぶやくことが私たちの中にある。またキリスト者は主イエスとの関係を結婚に例えることがある。私たちの信仰から喜びが喪失してしまったとするなら、これは大変大きな問題だ・・・・・・。ローマ社会において迫害を経験していたヨハネ福音書の最初読者たちはキリストにあって生きる喜びを失ってしまうような厳しい日々を味わっていたかもしれない。
そう考えるとマリアの求めはより切実な訴えに響いてくる。しかし、このマリアの訴えに対するイエスの反応は分かりづらい。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。
だが、この主イエスの言葉はヨハネ福音書全体として意味を持つ言葉として記されている。特に「わたしの時」というのは、ヨハネ福音書では繰り返し登場する言葉であり、主イエスの受難、十字架と復活によって、救いを完成する時を指す。ヨハネ福音書は「その時」を頂点する神の救いのドラマを物語っている。その神の救いのドラマの始まりが「カナの婚礼」の物語が置かれる位置なのだ。
「ぶどう酒がありません」。「喜びがなくなってしまいました」。そのような私たちの叫びを神様は主イエスの十字架と復活の出来事を通して救って下さった。イエスこそ私たちの喜びの源であることカナの婚礼の物語は「最初のしるし」として私たちに告げられているのだ。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)。十字架を目前にした主イエスが弟子たちに語りかけた言葉だ。深い悲しみの中にある時、「その悲しみは喜びに変わる」など、水がぶどう酒に変わると同じように信じがたいことに思える。しかし、ぶどう酒が尽きた悲しみの中から、キリストにあって新しく歩みだした証がある。
私たちも自分が努力して用意したぶどう酒が尽きてしまうことがあるかもしれない。しかし、私たちにはキリストという極上のワインが最後に用意されていることを知るものである。それを信じて生きることができる者たちである。