復活の主にお会いして
2024年3月31日 イザヤ書55:1~11、ヨハネによる福音120:1~18 関 伸子牧師 ヨハネによる福音書の復活物語にはイエスの近しい人々が次々に交差します。そしてここでは、複数の女たちの中でも特にマグダラのマリアに焦点が合わせられています。週の初めの日の明け方、一人で墓に向かったマグダラのマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見て、ペトロともう一人の弟子に「誰かが主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません」と告げます。「誰かが主を取り去り[…続きを読む]
失われない自由
2024年3月24日 詩編64:1~11、ヨハネによる福音書18:1~11 関 伸子牧師 ヨハネ福音書はいよいよ第18章から受難物語へと入って行きます。 「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(1節)。キドロンというこの地名は、どういう意味なのか。今日では、ほぼその解釈は一致していて、「暗い谷」という意味だと言います。オリーブ山とエルサレムの都を隔てているのがキドロンの谷であったようです。他の福音書で言うとゲッセ[…続きを読む]
麦粒の恵み
2024年3月17日 イザヤ63:1~9、ヨハネによる福音書12:20~26 関 伸子牧師 カナの婚礼で示された「最初のしるし」から始まり、ラザロの復活という「しるし」によってクライマックスに達するヨハネによる福音書第2章から12章は、「しるしの書」と呼ばれます。第12章19節までを貫いているのは「私の時はまだ来ていません」という主題です。しかし、今日の箇所では「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と宣言され、ついに「イエスの時」が来たことが示さ[…続きを読む]
真実の歩みの始まり
2024年3月10日 詩編2:1~12、ヨハネによる福音書12:1~11 関 伸子牧師 ヨハネによる福音書第12章において、いよいよ主イエスの公的宣言は大詰めを迎えます。今日の「ベタニアで香油を注がれる」と小見出しのついた箇所とよく似た物語がマタイにもマルコにも出てきます。おそらくもとは同じ話であったと思われますが、マタイやマルコが主イエスの受難物語の最初の出来事として記しているのに対してヨハネはそれが始まる前エルサレムへ入る直前の出来事となっています。[…続きを読む]
神の恵みをむだにせず
2024年3月3日 ヨシュア記24:14~24、ガラテヤの信徒への手紙2:15~21 関 伸子_牧師 「私たちは生まれながらのユダヤ人であり、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義と[…続きを読む]