カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • イエスと共に生きる

    2026年3月15日
    出エジプト記24:12~18、マルコによる福音書9:2~13
    関 伸子_牧師

     「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた」(2,3節)。この、いかにも不思議な神秘に満ちた出来事を書き始めるに際して、マルコは「六日の後」と書きます。明らかに31節を受けていると思います。31節に主イエスがこのフィリポ・カイサリアの地方において「人の子」、つまり御自分が多くの苦しみを受けて、当時の宗教的指導者たちによって殺される、そして三日目には甦るということを「弟子たちに教え始められた」と書いています。「教え始められた」。それがまだ続いているのです。

     主イエスはペトロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて高い山へ登って行かれました。山は古くから重要な啓示がある場所です。旧約聖書において神と出会う場所であり、山上で起きた出来事は、まさに神の臨在を示すものでした。ここでイエスさまの姿が変容します。イエスの服の白さは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」(3節)とあります。この白い輝きは神を仰いで礼拝する人々の顔を輝かすことを教えるものです。また、この白い輝きは清さをも示しており、地上ではどんなさらし職人もそれほどまでに白くはできませんが、天上には人々の衣を自らの地で洗って清くする神の子羊がいるのです。エリヤとモーセ、預言者と律法、はイエスの民の歴史とその意味を代表しています。この歴史は、主イエスにおいて完全に成就します。
    2節後半、「彼らの目の前でイエスの姿が変わり」から8節までに山の上の出来事が語られています。この段落には二つの特徴があります。第一に主イエスは行為の主体であるように思うのですが、実は主体であることは一度もありません。「イエスの姿が変わり」ではイエスが動作の主体であるかのように思えますが、原文では受動形の動詞が使われ、直訳すれば「彼らの目の前で姿を変えられた」となります。第二の特徴はこの段落に書かれた出来事は8節を除けばすべて「彼ら」、つまり3人の弟子たちのために起こっていることです。イエスの姿が変えられたのは「彼ら」の目の前であり、エリヤがモーセと一緒に姿を顕したのも「彼ら」のためであって、主イエスご自身のためではありません。

     律法を象徴するモーセ、預言を象徴するエリヤ。この二人がイエスと語っているという光景に圧倒されたペトロは、「仮小屋を建てましょう」という愚かなことを言いだします。すると神は雲ですべてを覆い、「これは私の愛する子。これに聞け」と言われます。雲が消える元の姿に戻ったイエスがいるだけです。エリヤとモーセは役目を果たし終えて消えたのです。「ただイエスだけが」共におられる。聖書は私たちに神の言葉を徹底的に「聞くこと」を要求します。

     弟子たちが急いで見回すと、そこにいるのはイエスだけで、ほかにだれも見えませんでした。白昼夢を見たような出来事でしたが、この経験は弟子たちにとって忘れることのできない霊的体験であり、後の彼らの信仰と宣教の原動力となったのです。正気に帰った時に、どんなことが起こったのでしょうか。8節がそれを語ります。「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた」。この翻訳も間違ってはいませんが、もう少し原文に近い翻訳をすると、「自分たちと共にいるイエスのほか、だれも見出さなかった」というのです。彼らが見ていたのは、自分たちと共にいるイエスだけであった、という言葉です。私たちは知っています。罪人たちの中に踏み込み、ついには十字架にまで至る受難の人イエスこそ、栄光の勝利者キリストです。しかし弟子たちは、不安を抱きつつ訪ねました。あなたを救い主とは誰も認めていません。13節に、主はこう言われました。「エリヤは既に来たのだ。そして、彼について書いてあるとおり、人々は好きなようにあしらったのである」。これは、たいへん興味深い主イエスの言葉です。洗礼者ヨハネが来た時に、人びとは、一方ではこれを歓迎しながら、他方では、結局殺してしまった。ヘロデが殺したのです。つまり、確かに好きなようにあしらったのです。「この好きなようにあしらう」ということは、やりたいことをやったということでしょう。エリヤが来ようが人の子が来ようが、人びとは自分のしたいことをやるだけです。誰が来てもこれからもそうするでしょう。

     しかし、主はそれを「聖書に書いてあるように」と言われます。それが神のみこころであると言われるのです。人間は、自分のやりたいことをやっている時には、神を無視しています。しかし、そこで自分のやりたいことをやる時に、人は神の子を何度でも殺してしまうようなことをする。神の愛の戒めを踏みにじってしまうのです。しかもそこでこそ、神の意志は貫かれる。聖書に書いてあった通りのことが起こっているだけなのです。わたしたちの本心には、どうしても神の教えから背く、とても困ったところがあります。だから主イエスは、わたしたちのところに、力を持ってではなく、その力の下で殺されて、かえってわたしたちを愛し抜く道を選んで、来てくださったのです。これは何度考えてとても不思議なことです。

     主イエスは、弟子たちといつも一緒にいてくださって、弟子たちが地上の現実にふと気がついた時に、わたしはあなたがたと一緒にいると、ご自身の姿を見せてくださった。その主イエスが、今わたしたちと共にいてくださる。わたしたちの信仰をもって、わたしたちの信仰の目をもって仰ぐ方として、ここにいてくださることを感謝します。山の上でいただいたこのともし火ゆえに、私たちは忍耐をもって主イエスに従い、み言葉を聴くことにおいて誤りがありませんように。お祈りをいたします。