カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真実の王

    2026年3月29日
    イザヤ50:4~7、マルコによる福音書1533~41
    関 伸子_牧師

     今朝、みなさんと一緒に読むマルコによる福音書第15章33節から41節には、主イエスが十字架の上で息を引き取られる様子が記されており、受難の記事の中でも最も重要な箇所です。最初に、「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」とあります。昼に暗くなるとは、どういうことでしょうか。何が起こったのかはわかりませんが、とにかくキリストの十字架が全地に闇をもたらしたというのです。わたしたちはイースターの光を知っています。しかし、十字架の暗さを考えてはいないのではないでしょうか。

     マルコの描く主イエスは、十字架上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私を追見捨てになったのですか)」と叫んで息を引き取ります。イエスの目から見ても、十字架に放置された今は神に捨てられた状態としか映りません。そこで「なぜ私をお見捨てになったのですか」と嘆きの言葉を神に投げかけます。しかし、それでも「わが神、わが神」と呼びかけ、応答を求めています。この言葉は詩編第22編2節の言葉なのです。ここに重要なことが隠されています。「神よ、なぜ、お見捨てになったのですか」と言う叫びはイエス御自身の言葉で訴えてもよかった。しかし人の心に訴えるような言葉で記さず、あくまでも聖書の言葉で表そうとする、それに驚くのです。エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニと叫んだと言うと、敗北の言葉と感じる。しかし、それを詩編の言葉で言われたとするならば、つまり、神の言葉で言おうとされたとするならば、それは敗北ではないのです。詩編第22編の終わりの方まで読むとよく分かりますし、2節から9節まででも分かるように、この詩は神への絶望ではなく、神こそ救いだと歌っているのです。「わが神、わが神」と、絶望の中で神を呼ぶことができた。絶望の言葉を神の言葉で語る、そこに神に対する信頼が示されているのです。

     わたしたちが自分の罪ゆえに苦しみ、悩み、その罪の敬虔のどん底で叫ぶのは、究極のところ「どうして自分は神から見放されているのか」ということにではないでしょうか。悪いことをしておいて神に訴える。それは身勝手な言い方です。しかし、本当に罪に苦しむ者は、遂には、そこに至るだろうと思うのです。

     その時「そばに居合わせた人々」のなかには、「エリヤを呼んでいる」とからかい、酸いぶどう酒を含ませた海綿を葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした人々がいました。彼らの目には十字架で叫ぶイエスはエリヤの助けを求める哀れな罪人と映っています。

     こうしてイエスが大声を出して息を引き取ると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この垂れ幕は、年に一度、大祭司だけが入ることのできた至聖所の前にかけられていた幕だといわれます。そうであれば、この幕を裂くことになったイエスの死は、すべての人に神との直接的な交わりを可能にする出来事であり、新しい契約が成就したことのしるしになっています。こうして、異邦人も神との交わりに招かれることになります。

     それを最初に示したのは百人隊長(異邦人)です。彼は「イエスに向かって立っていた」が、イエスが生きを引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と告白します。ここで「向かって立っていた」と訳された動詞は35節の「そばに立っていた何人か(人々)」と同じ動詞です。同じようにイエスのそばにいても、十字架はまったく別物に見えます。十字架のそばにいても、心が遠くにあるとき、十字架は「つまずかせるもの」でしかありません。しかし、イエスのほうを向いて、そのそばに立つとき、神の救いの業を見て取ることができます。

     当時のユダヤ人は、異邦人の百人隊長がこれを言ったということに驚いたでしょう。弟子たちは逃げ去り、誰もイエスの死を本当に受け止めた人はなかったかのように見えたのに、思わぬところから「本当に、この人は神の子だった」という声が起こったのです。しかし、この事によって、真の信仰を告白することができるようになったのです。

     最後に女たちが十字架の死を見守っていたと記されています。しかも多くの女たちがいたとされています。男の弟子たちは皆逃げてしまった。しかし、女の弟子たちが残った。当時の社会では人間の数には数えられない、無力な、目立たず、弱い存在にすぎない、その人々が最後の証人となったのです。十字架の死の証人となったばからではなく、十字架から復活に至るまでの証人となったのは女たちであったのです。彼女たちは目立たないように一部始終を見続けていました。これはマルコによる福音書の顕著な特色です。

     わたしたちも百人隊長や女たちのように、世間から見れば弱く、愚かで、数にもはいらない者ですけれども、そういうわたしたちにも、主の御苦しみ、死の直接の証人になることはできることが明らかになったのではないでしょうか。
     そして、とてもさいわいなことは、妙な言い方かもしれませんけれども、わたしたちはどんなに絶望しても主イエスのように絶望することはもうないのです。なぜ神は、お見捨てになったのですか、わたしは独りぼっちですと思った。主イエスは実際にそうお思いになったでしょう。けれどもわたしたちがそう思った時に、わたしたちは独りにはなりません。主イエスが、そこにおられるのです。そしてあなたがたの誰ひとり、わたしほどもう苦しまなくていいのだ、とおっしゃってくださっているのです。このみ言葉とそれをめぐる出来事の意味を深く心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。