カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 端っこから神の国

    2026年5月10日
    創世記12:1~3、マタイ4:12~17
    松本 雅弘_牧師(あさひ教会協力牧師)

     イエスさまの宣教活動は、象徴的な場所と第一声から始まりました。選挙の第一声が候補者の姿勢を示すように、イエスさまがどこで何を語り始めたかは、福音書全体の方向性を決めるほど重要です。マタイは、イエスさまが「ガリラヤ」で宣教を開始し、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言されたことを強調します。この第一声には、神の国の性質、神の愛の向かう方向、そして救いの広がりが凝縮されています。

     まず注目したいのは、宣教の出発点が「ガリラヤ」であったことです。ガリラヤとは「周辺・端っこ」を意味し、異邦人が多く住む地域でした。エルサレムという宗教的中心から遠く、軽蔑され、結婚相手としても敬遠され、律法を学ぶ権利さえ十分に主張できなかった人々の地でした。「ガリラヤからは何の良いものも出ない」と言われていたほどです。しかしイエスさまは、まさにその地を選ばれました。そこにこそ、神を必要とする人々がいたからです。神の国は、中心からではなく「端っこ」から始まる。これは神の愛の方向性を示す深いメッセージです。

     マタイはイザヤ書の預言を引用し、ガリラヤでの宣教開始が神の計画の成就であることを示します。「闇の中に住む民は大いなる光を見た」。ガリラヤの人々は、社会の闇の中に置かれた人々でした。その地にイエスさまが立たれたこと自体が、光の到来でした。光は、光のある場所ではなく、暗闇にこそ必要とされます。だからこそイエスさまは、ガリラヤに立たれたのです。
    「福音」とは本来、王家に子が生まれた時の「良き知らせ」を指す言葉です。神はその知らせを、社会の中心ではなく、羊飼いや東方の博士たちという「端っこ」にいる人々に最初に告げられました。羊飼いは人口調査の対象外とされ、博士たちは異邦人であり、占星術という忌避される職業の人々でした。神の祝福は、常識的には「蚊帳の外」にいる人々にまず届けられたのです。神の愛は、弱さや貧しさ、社会的な位置によって変わることがありません。むしろ「そこにこそ」向かっていくのです。
    そしてイエスさまもまた、エルサレムではなくガリラヤに立ち、「天の国は近づいた」と宣言されました。神の国とは「神が王として支配される領域」、すなわち「イエスさまがおられるところ」です。ならば、イエスさまがガリラヤに立たれた瞬間、そこが神の国となったのです。軽蔑され、闇と死の陰に覆われた地が、神の臨在によって光の地へと変えられました。これは、私たちの人生にもそのまま当てはまります。どれほど暗い場所であっても、主が立たれるなら、そこは神の国となるのです。

     私たちの周りにも、神の国とは思えない現実があります。戦争、ガザで起こったこと、殺人、社会の不安、政治の混乱。私たち自身の心にも闇があります。信仰者であっても、心の中に「ガリラヤ」のような場所が残っています。しかし、暗闇を追い払う方法はただ一つ、光を灯すことです。イエスさまは光として、私たちのただ中に来てくださったお方です。

     山上での変貌の出来事の裏で、弟子たちは悪霊に苦しむ子どもを前に何もできず、群衆と議論をしていました。そこに戻られたイエスさまは、「その子を私のところに連れてきなさい」と言われました。問題を分析し続けて思い煩うのではなく、問題そのものをイエスさまのもとに持っていくこと。そこに光が差し込み、暗闇が後退していきます。祈りとは、問題を主の前に差し出す行為です。私たちが「自分で何とかしよう」と握りしめている限り、暗闇は居座り続けます。しかし主の前に差し出すとき、光が差し込み始めます。

     そして、私たちが抱える「ガリラヤ」は、必ずしも大きな問題だけではありません。誰にも言えない小さな不安、心の奥に沈んだ孤独、言葉にできない疲れ、信仰の歩みの中で感じる空虚さ。そうした“名もなき闇”にも、主は静かに立ってくださいます。私たちが気づかないほどそっと、しかし確かに光を灯してくださるのです。

     さて、今日触れなかった重要な人物がいます。洗礼者ヨハネです。イエスさまの宣教開始の背後で、ヨハネはヘロデの罪を指摘したゆえに捕らえられ、やがて殉教します。ヨハネは「主の道を備える者」として、神の国が見えるように道を整える働きをしました。しかし彼自身も牢獄の中で光を見失い、「あなたこそ来るべき方ですか」とイエスさまに問いを送っています。神の国が見えなくなる経験は、ヨハネだけでなく私たちも同じです。信仰者であっても、時に光が見えなくなる。祈っても状況が変わらない。そんな時、ヨハネの姿は私たちに慰めを与えます。迷いは信仰の欠如ではなく、信仰の旅の一部なのです。

     だからこそ、イエスさまの第一声「悔い改めよ」に耳を傾けたい。「悔い改め」とは単なる後悔ではなく、価値観の転換です。「神はおられない」という前提から、「神は共におられる」という約束に立ち返ることです。「ガリラヤで会おう」と言われた主の言葉を握り、私たちのガリラヤの現実を主と共に歩む決心です。悔い改めとは、神の国の光の側に立ち直ることです。