先立つ主に従う旅路
2018年4月22日
出エジプト13:17-22、ヨハネ1:14、18
めぐみ教会 荒瀬 牧彦 牧師
意気揚々とエジプトを出国したイスラエルの人たち。しかし、すぐに「乳と蜜の流れる地」に入れたわけではありませんでした。そんなに長くかかるとは思わなかったでしょうが、結局40年を荒れ野で旅し続けたのです。神さまの力不足のために入る土地を用意するまでに手間取ってしまった、ということではありません。種々雑多な人たちの集まり、しかも自分勝手で移り気で不安定な人たちの集合体を、育て、整え、約束の地に神の民のとして入っていく準備をするために、長い時間をかけたのです。
40年かけて彼らは何をしたのか。それは、雲の柱・火の柱に従って旅をするということでした。「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。」(出エジプト40:36) つまり、自分たちのペースではなくて、神さまの指示に合わせるということなのです。数日後に移動する時があったり、逆に何か月も動かない時がある。夜に出発する時もあるし、天気の良い昼間にじっとしていることもある。単純ですが、なかなか難しいトレーニングです。しかしそのことを通して、神様は実に忍耐強く人々を育ててくださったのです。
わたしたちも旅をしている者です。わたしたちの進むのは、先立つ主に従う旅路であるということを学びましょう。この旅路においては、なんでこんな方向に行くのか、あるいはなぜここで何か月もじっとしているのか、旅行計画の意図がさっぱりわからないということがある、ということです。イスラエルがエジプトを後にした時、ペリシテ街道ではなく、葦の海に至る荒れ野に迂回した時のようなことです。なぜこんな変な道に行くのか、その時には理解し難いのです。
理解し難い時に必要なことは何か。それは主に信頼するということです。神さまはいたずらに我々を彷徨わせているのではない。そこには計画があるはずだ。だから計画者である主に信頼するのです。求められるのは主への信頼です。
「主に信頼するというのはいいが、しかし我々には雲の柱などないではないか」と思われる方もいるでしょう。私は思うのです。我々にとっての雲の柱は主イエス・キリストであると。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ福音書1章14節
「宿られた」は、幕屋に臨在する神という旧約の信仰を背景とする言葉です。昔、荒野の旅において臨在の幕屋というテントに、雲の柱によって神の臨在が示されました。今、神が与えてくださった受肉の恵みにおいて、イエス・キリストがわたしたちの間に宿られているのです。イエス・キリストという御方の言葉と業を通して、神は、進むべき旅路を示してくださいます。我々の進むべき旅路に、主キリストが先立っておられるのです。
福音書をご覧ください。主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた時、弟子たちは舟に乗り込んで向こう岸へ向かいました。また逆に、五千人の群衆を弟子たちが解散させようとした時、主イエスは「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と言われ、その場所にとどまることを求められました。イエス様は、従う者たちが進むべき時、とどまるべき時を示しておられるのです。
これから先、日本の教会はとても困難な時期を迎えます。「これまでやってきたこと」だけを物差しにすれば、「ジリ貧だ」とあせりや不安を感ぜずにおれないでしょう。でも、恐れることはないのです。わたしたちは、まだ通ったことのない所に行くのですから。変化は恐ろしいことではありません。イスラエルが荒れ野で40年間受けたトレーニングを思い起こしましょう。
神さまが進みなさいと示された時には前進し、とどまりなさいと示された時にはとどまるのです。とどまっているというのは停滞と思えるかもしれませんが、とまるべくしてとまっているなら停滞ではなく、前進の一部なのです。
わたしたちの歩みは、先立つ主に従う旅路です。主に信頼してとどまり、主に信頼して進む長旅です。そのために、わたしたちの救い主イエス様のことばとわざにいつも注目していきましょう。