十字架の王
2021年3月28日
ゼカリヤ書9:9~10、マタイ27:45~56
関 伸子牧師
棕梠の主日を迎えました。主イエスは前夜ゲッセマネで祈った後に、この日は聖地エルサレムを囲む城壁にいくつかある門に達して、弟子たちが近くで調達した子ろばに乗って、弟子たちを含む大勢が服を脱いで地面に敷き、あるいは植物の枝を敷いた地面を踏んで、城内へ入城しました。
先ほどお読みしましたゼカリヤ書第9章9節から10節は、このことを預言する言葉として新約聖書に引用されます。シオンとその住民が深い喜びに満たされるのは、「見よ、あなたの王が来る」からである。シオンに到来する王は神に従う人であり、神との関わりにおける正しさを持つ方です。彼は高ぶることなく、したがって、彼は「馬」はなく、「ろば」に乗ってくるものです。しかも、「ろば」を説明して、「雌ろばの子であるろば」と言い換える。これは王がもたらす恵みの豊かさを表現すると思われます。王が来ることによって、神が軍馬を発ち、戦いの弓は絶たれる。こうして、王は平和を「告げる」(直訳)ことになる。貧しい(高ぶらない)王であるメシアは、それまでのメシア預言には見られない新しい要素です。こうして、十字架に上るメシアが準備されました。
マタイによる福音書の十字架刑の記事を読んでいくと、その時、主イエスの周辺には実にさまざまな立場の人々がいたことがわかります。刑を執行するローマの兵士たち、たまたまその場にめぐり合わせたシモンというキレネ人、イエスと共に処刑される二人の囚人、大勢の見物人、対する祭司長や律法学者や長老たち。ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」と問うと、イエスは「それは、あなたが言っていることだ」と答えます(11節)。イエスは確かに王ですけれども、この世の権力を思うままに行使する王ではなく、神の救いを実現させるための王です。弟子にさえ見放されたイエスがなぜ「王」なのか、ピラトも兵士たちも理解することができません。彼らの目に映ったイエスは、強盗に挟まれて十字架につけられている無力で惨めな死刑囚でしかありません。
「さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ」(45節)。イエスがついに十字架上で息を引きとられた時、次々と不思議な現象が起こりました。真っ昼間であるにもかかわらず、全地が真っ暗になる。イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。「私の神よ、私の神よ。なぜ、あなたは私を見捨てたのですか」(46節)という意味である。しかし、神はイエスを十字架から降ろしませんでした。イエスは死なない「神の子」ではなく、死んで復活する「神の子」です。主イエスがついに息を引き取られた時、エルサレムの「神殿の垂れ幕が上から下までまっ二つに裂け」(51節)た。この神殿の垂れ幕とは、神と私たちを隔てる象徴のようなものです。その向こうの至聖所には大祭司だけが、しかも年に一度だけ民の贖罪のために入ることが許されていました。その垂れ幕が裂けた。
これらは終末の到来を知らせるものです。イエスを罵る人々とは対照的に、百人隊長や見張りをしていた兵士たちは、イエスの死とこれらの不思議な出来事を見ました。百人隊長は、そのような一部始終を見ていたからこそ、「本当に、この人は神の子だった」(54節)と、イエスへの信仰を言い表します。私たちも十字架を見張る兵士の傍らに立って、目の前に起こる出来事をつぶさに見て、神が十字架を通して語る言葉を聞くようにと招かれています。
神がイエス・キリストによってもたらしてくださった救いは、十字架に集中しています。 ヨハネによる福音書第19章30節によると、イエスは十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取った。これは、旧約聖書において預言されていた神の救いの約束が完了したという意味である。すべてのことは十字架の光の中で初めて明らかになります。私たちはイエスの十字架に対してどのような態度をとるだろうか。
牧師・神学者であった高倉徳太郎は「十字架における友情」と題してこのようなことを書いている。「孤独なる人生にあって、主の十字架を仰ぎ、そこに帰り来るものにのみ、永遠にかわらざる交わりはなされているのである。(中略)キリストの十字架をぬきにしては、我らは友を無条件に信じてゆくことはできないのである。かかる意味で主の十字架に帰るとは、十字架を中心としたる教会に帰るということに他ならない」。私たちの礼拝堂は正面に十字架を掲げています。十字架を仰ぎ、友のために祈り合い、互いにゆるしゆるされ、主が与えてくださる使命を一つにする。
イエスの場合、十字架の処刑が最後ではなかった。死に勝利し、復活させられるのである。悲しみの中で最後までとどまった女性たちが、それゆえに復活の最初の証人ともされたのではないか。悲しみを単に見物していては、主イエスの勝利に出会うことはできない。十字架における神の愛に深く感謝して、いつも十字架を中心とした交わりの中で主に従って行きたい。
お祈りをいたします。