時を知る知識
2021年6月20日
イザヤ書2:1~5、ローマの信徒への手紙13:11~14
関 伸子牧師
使徒パウロはローマの信徒への手紙第12章1節から始まる勧告で、まず「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と勧めます。キリスト者の生活を支えるのはこのような礼拝だからです。そして神の愛を受けた者の務めは「互いに愛し合う」ことであると教えます。今日の箇所では、そのように生きることのできる理由を述べます。
パウロが勧める行いに励むことができるのは、信じる者は「今がどんな時であるかをあなたがたが知っているから」(11節)である。ギリシア語では、時をあらわすのに、クロノス、カイロスという二つの言葉があります。クロノスは単なる時間であり、カイロスは大事な時、待ち望んでいる時というように、時自体に意味のあるものです。ここで言われている「時」はカイロスであり、キリスト者は時の知識を、その行動の動機となっている知識を持っているとパウロは言います。
パウロはローマの信徒への手紙第13章で続けてこう言います。「あなたがたが眠りから覚める時がすでに来ています。今や、私たちの救いが、初め信じた時よりも近づいているからです」(11節bc)。時の意義を知るということは、今が眠りから覚めるべきである時であるという知識を含むのである。この手紙が書かれた時代の人々は再臨が近いということを私たちが考える以上に切迫した問題として捉えていました。そのために目を覚ます必要性が切迫していることが強調されています。
パウロがここで、ローマの教会の人びとに与えられていると確信しているのは、霊的な知識です。近い将来に起こるべきことを既に知っているということである。ローマの民は知らないもの、しかし、キリスト者を繰り返し迫害した権力が見てはいなかった歴史の真相をキリスト者は見ていたのである。それが迫害に耐え、殉教にもひるまないエネルギーを生んでいたのである。迫害に耐えるなかで、隣人を愛する力をいただく。これはキリストと共にある者に与えられるものである。
この箇所を読みながら、2019年10月にカンバーランドのアジア教職者リトリートに参加して訪れた香港で出会った牧師たち、キリスト者たちを思わずにおれません。30年以上牧会をした教会を離れ、今は家族そろってエジンバラに移り、5月から香港からの移民のために広東語礼拝を始めたウイリアム・イエン牧師は『2020年福音自由宣言』想起者の一人である。香港で信教の自由を求めて声を上げ、中国政府から危険人物と見られ、しばらく台湾に移り、その後、2021年1月にエジンバラに移住しました。日本中会に定期的に手紙を書き送ってくださり、2月の手紙のなかでウイリアム先生は、「どこにいても神の宣教の働きは止まらない。エジンバラで香港から移住する人たちのために礼拝を始めたいので、祈ってください」と記しました。このことを祈っていたところ、昨年、『香港の民主化運動と信教の自由』を編訳された松谷曄介先生がFacebookに「ウイリアム先生は5月からエジンバラで広東語礼拝を始め、子どもと大人50人が集った」と紹介してくださいました。香港の民主化運動のなかでキリスト者が忍耐に耐えながら、殉教にもひるまないエネルギーを生み出している! 神の働きは止まらない。
「夜は更け、昼が近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう」(12節)と、続けてパウロは言います。「光の武具を身に着ける」という場合の「身に着ける」という動詞は、「キリストを身につける」と同様に使われています。この箇所において、主イエス・キリストを着るということは、すでに私たちを御自分の所有としてくださったキリストを、信仰と確信をもって、また感謝に満ちて、なお繰り返し受け入れていくことなのである。洗礼を受けたとき、召命を受けて神学校に行き牧師になるとき、教会で新しい役割を担うとき、私たちは、その都度「キリストを着る」。
闇はまだ深い。いまだ夜の深さの中で目覚めている。キリスト者は夜の深さ、暗さ、絶望のなかで、朝の光を見ているのです。神がこの世界に外からやって来る。だから続けてパウロは、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」(13節a)と語ります。「品位」という言葉を聞くと、私は母教会でよく恩師が「キリスト者にはdecency(品位)があることが大切である」と言っていたことを思い出します。ここで「品位」というのは白昼誰が見ていても恥ずかしくない態度を示します。「良い」「形」で「つつしみ深く」歩む。日常の生活に密着し、その中でキリストを待ち望む生活をすることが必要なのです。私たちは再臨の光の中で生きているのです!
主はかつて来られ、今私たちと共におられ、そしてやがてふたたび来られる。そのような希望、「主の来臨の希望」を心に抱きつつ、「その日、その時」に至るまで、私たちはそれぞれに与えられた生活の現場において、主にある希望を語り、実践し、互いに愛し合いながら、証しを立てる日々を過ごしていきたいと思います。