キリストの愛から離れない
2021年7月25日
詩編107:1~9、コリント二5:14~6:2
関 伸子牧師
東小金井教会が最初の礼拝をささげた1964年から57年経ちました。今もコロナ禍にありますけれども、神の恵みの出来事のなかで礼拝をささげる喜びに生かされていることを深く感謝します。
「わたしたちは、この宝を土の器に納めています」と、パウロはコリントの信徒への手紙二第4章7節で言います。そして第5章1節でパウロは、自分たちが高価な宝を安く壊れ易い土の器に盛っているということを、さらに、神から与えられた命を崩れゆく地上の体に持っているというたとえに展開させている。「外なる人」という表現(コリ二4:16)、この1節では、「地上の幕屋の家」と言い換えられている。キリスト者は地上でイエスのしもべでありながら、イエスを通して天の霊的なものを持つという特権にもあずかっているのだと思う。
土の器であるにも拘わらず、なお、伝道のわざをしようというのはどういうことなのか。それは、「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです」と今日の箇所、第5章14節に記されているパウロの言葉に現われています。パウロはアジア州で死をも覚悟させるような苦難を経験しました。しかし、死は虚しい終わりではなく「永遠の住みか」へと移るために必要な出来事だと理解するパウロは、死を恐れずに宣教します。このようなパウロたちの宣教姿勢は「正気ではない」と見られたのでしょう。
パウロの働きはとても人間のわざとは思えません。なぜなら、パウロの働き、それは、神のわざであり、キリストの力が表れたことであったからです。パウロは、キリストに出会い、キリストに愛されて、動きがとれなくなり、そのために、その愛に押し出されるままに動いていったのです。このキリストからの強い愛は、キリストがすべての人々のために十字架上で死んだことに明確に表されています。そして、キリストがすべての人々の代表として死んだのは、すべての人々の肉の体が、共に十字架に掛けられて死に、もはや罪に仕えることがないようにするためである。
ですから、パウロは「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と述べます(16節)。この「今」とは、パウロが生きることの意味を換えたイエスの死と復活という決定的な出来事を指しています。「肉に従って」とは、神との関わりを持たずに、人間的な見地に立った生き方を指しています。神が歴史に介入した「今」は、「肉に従った」生き方から解放され、神からの霊に基づく新しい生き方が可能となっています。
そこで、パウロは今、目の前に現れた現実を「新しい」と呼びます(17節)。キリストの内にいる人は「死んで起こされた方」の内にいる人であり、そのような人として自分自身もキリストと共に死んで起こされているのです。そしてパウロは「これら全てのことは神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました」(18節)と語る。
「和解させる(カタラッソー)」とは、元々はあるものを「別のもの(アロス)」と取り替えることであり、例えば敵意と友情を取り替えるのが和解である。キリストは人々の敵意に友情で対応し、最終的に罪人のために死ぬことで神の愛を示したそして、この和解の出来事こそが福音そのものであり、これを人々に告げることがキリスト者の務めである。神は罪の責任を問わないだけでなく、和解の福音を委ねられたのである!
もちろん、ここに言われていることは、直接的には、パウロのことですけれども、「私たち」と書いてあるように、和解を与えられたのは教会です。そこに、また、教会にとって重要なことがあります。教会は和解の福音を託されている、ということです。パウロの言葉で言えば、「キリストの愛が私たちを捕らえて離さない」(5:14)からこそ、私たちは、何か、神のみ心にかなうことをすることができるのです。神の恵みを受けることがなければ、私たちは、神のために働く資格を持つことができません。ただひたすら、神を思い、神の栄光のために生きるには、神の恵みによって救われるほかないのです。パウロはそのことを、第6章1節から2節で語ります。
カルヴァンがこのところの説教で、この恵みというのは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、「時満ちて」と言われていることである、と言います。時が満ちるとは、神があらかじめ約束しておられた時が来た、ということです。恵みや救い、それには時や時期があります。神は神のよしとされる時に、ご自身の恵みの業を遂行するために、神がそう決断した日が「救いの日」である。そして、パウロは「今」こそが、その時、その日であると言う。キリストが宣べ伝えられる今こそ、救いの日が到来するのである。私たちは、恵みのこのような時を忘れてはならない。信仰は常に「今ここ」なのである。私たちに日々与えられる恵みに感謝して、証しする者としての日々を喜んで生きていきたいと思います。お祈りいたします。