カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 神の国のビジョンに生きる

    2022年2月6日
    サムエル記下12:1~13、マルコによる福音書4:26~34
    関 伸子牧師

     毎年2月第1主日は、カンバーランド長老教会の誕生(1810年2月4日)を記念するデノミネーション・サンデーとしてささげています。米国テネシー州にあるサムエル・マカドウ牧師の丸太小屋で3人の教職者が熱い祈りをささげてカンバーランド中会が誕生しました。その信仰の種が蒔かれて育ち、私たちは小金井市の小さな教会で礼拝をささげています。今日の福音書には種そのものの不思議な力について語られています。農耕に関することがらによって神の国を伝えています。

     26節から29節に種蒔きから収穫までの過程が三段階に分けて語られています。まず「夜昼、寝起きする」(27節)とありますが、これは収穫までにかなりの時間が経過することを表現するためです。そして発芽を述べた後、成長段階を細かく述べています。注目すべき表現は「どうしてそうなるのか、その人は知らない」(27節)と「ひとりでに」(28節)です。「ひとりでに」と訳された言葉(アウトマテー)は「目に見える原因もなく」を意味します。そうすると、この二つの表現が意味することは、人は植物の生長を見ることができるが、その成長の秘密を知ってはいないことであります。植物はひとりでに成長する。しかし、だからと言って、人間の関与が否定されたのではないのです。

     29節は刈り入れを述べますが、ここで注目されるのは時を示す二つの表現です。ひとつは「実が熟すと」であり、他は「すぐに」です。刈り入れにはちょうど良い時期があります。それが来ると、農夫は「すぐに鎌を入れて」、刈り入れを始めます。しかし、それを来させるのは農夫ではありません。農夫は実が熟したのを見て、反応しただけです。

     たとえの中心は神への信頼を呼びかけることにあります。農夫は種の成長の秘密を知らないし、刈り入れの時を思うままに操作することもできません。しかし、不安におびえることも、思い煩うこともありません。実りを信頼して水をまき、雑草を取ります。神の国(支配)も同じです。神の支配は目には見えず、計算もできません。しかし、確実に進展します。神の支配をもたらすのは人の働きではなく、神の働きです。空の鳥に巣を用意するのも神です。神の働きは目には見えなくても、大きな実りをもたらす。農夫を見れば、誰に信頼をおくべきなのか、自明です。

     最初のたとえ話は、大地の力と豊かさと耕作する人の働きとを比べています。耕作者が何をしていようと、夜昼、寝ていようと起きていようと、「種は芽を出して成長する」。種はその中に力を持っていて、最初に茎、次に穂、最後に小麦を実らせます。たとえ話の聴き手はこの過程をよく知っています。小麦はパンとなり、人間の生活に欠かせない日常の食物となります。

     二番目のたとえの要点は、どの種よりも「より小さい」からし種が、生え出ると、どの野菜よりも「大きく」なるということにあります。神の国も蒔かれるときは「より小さい」ものなのに、生え出ると「より大きな」ものとなります。からし種は一ミリ程度の小さな種ですけれども、生長が早く、数メートルの大きさにまでなることで知られています。そこから主イエスは、真の信仰の強さをこのからし種にたとえたことがあります(マタイ17:20)。信仰はごく小さなものであても、それが真のものであるなら、大きな力を発揮するというのであります。からしが香辛料として強い刺激を人々に与えるように、神の国はすでに始まっています。神の国も異邦人を含む、大きな共同体に成長してゆきます。目のある者はその成長を信じて、待つことができます。

     この二つのたとえの中心は神への信頼を呼びかけることにあります。神の国は、ガリラヤ出身の弟子たちの小さな集団から始まりましたが、やがて、世界中のどの帝国よりも大きくなっていきました。紀元1世紀のキリスト者たちは、エルサレムを中心とするユダヤ教やローマ帝国の強大さに比べると、まったく取るに足りない小さな存在でした。そのため使徒たちは世の人々に受け入れてもらえず、苦難の日々を送りました。しかし、神の国は必ず全世界に広がっていくことを、主イエスはからし種のたとえを使って約束されました。

     「種を蒔く人のたとえ」は、弟子たちには曖昧であったということかもしれません。この御言葉の中心は、言うまでもなく「神の国」です。それは、主イエスによって地上に始まったのです。豊かな収穫を共に喜ぶことを御旨とし、それを神ご自身の喜びとされるのです。そのために神は待っておられます。共に喜ぶ時を。だから、逆らい、疑う者たちもついには喜んで神のご支配に服するのです。神はその時を定め、待っておられます。私たちの教会は、今持っている種を喜んで蒔く者たちでありたいと思います。それがたとえ、肉眼にはほとんど見えない種であったとしても、神の国のビジョンを持ち、神の主権の中で喜んで種をまきましょう。お祈りをいたします。