民をあがなう神の愛
2024年12月8日
イザヤ書59:12~20、マタイ13:53~58
関 伸子牧師
主イエスは、たとえ話を語り終えるとガリラヤ湖畔を去り、郷里ナザレに行きました。イエスが会堂で教えると、人々はそのすばらしさに驚きました。聖書の中には、「驚く」と訳されているギリシア語は、いくつかあります。しかし、ここに用いられているギリシア語、これはそう頻繁には使われないものです。「本当にびっくりする」。そういう意味の言葉です。
あっけにとられて、これこれのことを言ったと言って、57節、58節は記します。「こうして、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである』と言い、人々の不信仰のゆえに、そこではあまり奇跡をなさらなかった」。
主イエスの教えの権威に人びとは驚いた。深いもの、力あるものに驚いた。関心したのです。しかし、関心したからと言って、それが信仰にはなっていないのです。 主イエスが隠され秘められているからわからないというのではなく、かえって私たちがよく知っているために、あるいはむしろ、「知っている」と思い込んでいるために、その本質を捉え損なうという場合があります。イエスには「大工の子」という以外に何の肩書きもありません。郷里の人びとは、この低さにつまずいたのです。
ナザレの人々はイエスの本質を理解できませんでした。知らなかったからではなく、知っていたから、知っているつもりだったから、つまずきが起こったというのです。自分たちはイエスを十分に知り尽くしているという先入観が、イエスに対する正しい理解の妨げとなり、つまずきとなったのです。イエスは人々のこのような態度に対し、当時の格言を引用して、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言いました。これは、預言者は、自分の郷里や家族以外の者には信じられ、尊敬されているという以外の意味があり、ナザレの人々の不信仰を非難した言葉です。イエスは彼らの不信仰のゆえに、ナザレでは多くの奇跡を行いませんでした。イエスは無理に押し付けたり、悔い改めを強要したりはしませんでした。どこまでも相手の主体性を重んじ、相手の責任にゆだねたのです。
ナザレの村人だけが特別に不信仰だったわけではないでしょう。私たちはナザレの人々の姿に自らを投影することができそうです。すでに見たとおり、彼らはイエスを知っていたからこそ神の子を拒絶しました。信仰とは、古代パレスチナの大工の息子において、彼自身がつい先日まで大工だったにもかかわらず、その彼の口を通して神が語られたこと、なさったことの新しさを見抜き、それによって自らが変革されるのを躊躇しないということです。しかし、人はしばしば自分が変えられることを拒絶します。それがまさにナザレの人々の姿であり、私たちにとっても他人事ではありません。
これまでの常識に立ち続ける私たちと、ナザレの人々が神の言葉を聞こうとせずに、目の前の自分が知っている人間しか見ない姿が重なります。偽りのリアリティを捨てて、神の言葉に自らの実存をかけて信頼を置いていくときに、神との生き生きとして関係が出来事として起こります。「神はあらゆる喜びの源泉である。神の言葉そのものが、われわれの中の喜びである」とボンヘッファーは『共に生きる生活』に書いています。
さて、ここで主イエスの母は「マリア」と名前が記されており、兄弟たちの名前まで記されているのに、父ヨセフの名前はなく、間接的に大工の息子」とだけ記されています。男性中心の当時の習慣としては不思議です。多くの人が想像することは、ヨセフは、イエス・キリストが12歳の時には生きていたけれども(ルカ2:42参照)、その後家族を遺して、先に死んでしまったのだろうということです。
ここに書いてあることからすれば、主イエスには少なくとも弟が四人、妹も何人かいたようです。この子どもたちをマリアが一人で育て挙げることは大変であったと思います。おそらく長男であるイエスを頼りにしていたことでしょう。カナの婚礼の記事では、マリアがいかに息子イエスを信頼し、頼っていたかが伝わってきます。主イエスは、少し距離を置くような応答をされることもありましたが、深いところで母マリアのことを思いやっていたに違いありません。やがてマリアは自分の息子が犯罪人として十字架刑に処せられていくのに立ち会わなければならなくなります。しかし主イエスは、自分に与えられた使命を全うしながら、最後には十字架の上から母マリアを思いやった優しい言葉をかけられたのでした(ヨハネ19:16)。
主イエスの真の力は、まばゆいばかりの輝きから出てくるのではなく、むしろ、その貧しさ、弱さ、低さ、十字架から出てきます。肉の近さがかえって霊の遠さになることもあります。
これはいったいどこの話でしょう。ここにはナザレという言葉は、全然出てきません。ただ「故郷」、〈ふるさと〉とだけ書いてあります。この「故郷」、主イエスを受け入れることがなかった〈故郷〉というのは、ナザレに留まらないということではないか。戦争をしている国であってもどこでも、神の住むべき場所です。神が住むところとして、お選びになったところです。しかし、そこを「自分のものだ」として占領しているのは、神が入って来ることを許さない、拒否しているということです。そして拒否した挙げ句に、イエスを十字架につけたのです。
イエスを拒否するなら、また力を受けることもありません。主は、喜んで信じる者に最高の賜物を与えてくださいます。これまでかえりみなかった最も小さなものに価値が出てくることを覚えたいと思います。クリスマスにやって来る人。「いったいこの人は誰なのか」。私たちは今年もまた新たにこの問いを問うのです。祈ります。