あなたに実現した神の言葉
2025年2月23日
イザヤ61:1~4、ルカ4:14~30
平 尚紀_牧師 (成瀬教会)
イエス様が語られる言葉には愛があり、力があり、そして命が宿っています。今朝お読みしました「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」ってすごい言葉です。
いつか、そのうちというのではなくて、今日、たった今、しかも、あなたがたが耳にしたとき、聖書の言葉が実現したんだって宣言できる人はなかなかいません。それを直接に聞いたと当時の人達はどれほどに驚いたことでしょうか。そして、どんなに嬉しかったことでしょうか。だって、当時の人々は、外国から占領されて貧しくされて、みな苦しめられていた。そういう時代です。しかも、その言葉を直接耳で聞いていた人達は、神様を信じ会堂で礼拝をささげていた人達です。神の言葉である聖書を繰り返し心に刻んでいた人達です。ですから、その聖書の言葉が、今ここで、あなたたちの目の前で実現したんだ。そんな事を言われたら誰もが驚いたことでしょう。そして、どんなに嬉しかったことでしょうか。
改めて考えてみますと、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃるイエス様の言葉は、今も生きている言葉ではないでしょうか。今朝も私たちは、神の言葉によって礼拝へと招かれ、神を賛美する者とされましたし、そして今、現実に私たちはここに、神の前に集っている。中には、ずいぶんと前からこの教会に通っているという人もいれば、あちこち教会を探して最近この教会に導かれたという人もいるのですが、それでもやっぱり神の言葉を聴くためにここに集っているのです。
神の言葉を聴くために集っている。それは、皆さんが、神の言葉を信じているからであって、神の言葉にこそ真実があり、神の言葉にこそ愛があり、神の言葉にこそ力があり、そして人を生かす命がある。そう知っているからだと思います。
その意味において、今日、私たちが現実にここに集い、喜びの礼拝をささげていることは、まさに神の言葉が実現したからであり、イエス様が語ってくださった神の言葉が、誰か人の口を通してこの私に語られた。さらに、それを耳にした、聞いた私たちが、ああ、本当にそうだ。とイエス様が語られた神の言葉が私の心の中で根付き、目を出し、もはや無視できないほどに大きく成長したからこそ、私たちは神の言葉こそが真実であり、愛であり力であり命であると信じているのだと思います。
ですから、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃるイエス様の言葉は、まさに今、私たちの中で実現したことであり、また私という一人一人の中で実現した神の言葉なのです。今日、あなたがここにいる。そのことが神の言葉によって実現した出来事です。同時に神の恵みによって教会へと導かれ、一つとされて、キリストの身体とされた私たちは、一人一人イエス様から直接にプロポーズされた、そういう一人一人です。「これから一緒に歩んで行こう」って声を懸けられて神の家族とされた私たちです。ですから、実際に周りを見てください。私たちは独りぼっちなんかではなく、共に歩む仲間がいる。イエス様を中心とした信仰の友がいる。支え合う神の家族がいる。それはどんなに遠く離れていても、目に見えなくても変わることのない事実です。イエス様がいつもそばにいてくださる。
「貧しい人」とか「捕らわれている人」や「目の見えない人」とは文字通りの意味に限りません。経済的には貧しくなくても心が貧しい時はあるし、何かの思いに捕らわれて凝り固まってしまう時もある。見るべきものが見えないのがわたしたちです。すべてに共通しているのは罪です。私たち人間は神に造られた者でありながら、それを見失い、あたかも自分が神になろうとする。それが罪です。今日の後半に、あれほど熱狂的に救い主を求め、イエス様をほめ、称賛していた人たちが、すぐにイエス様を町の外へ追い出し崖から突き落とそうとした、殺そうとしたのです。穏やかではありません。
一体なぜでしょうか・・・?それは、自分たちの思い通りではなかったからです。神の救いを熱心に求めながらも、願った通りでないと簡単に神をも亡き者にしてしまおうとする。最善のものを神は与えてくださったのに、私たちの思い通りでないと神の恵みさえ捨ててしまおうとする。殺してしまいたいと思うほどに、神をもコントロールしようとする。それは自分自身を神にしてしまうことです。それこそが罪です。
それでも、イエス様はそうした人々の間に来てくださいました。聖霊によってみごもり、聖霊によって遣わされ、聖霊によって神の言葉を告げ知らせる。それがイエス・キリストです。しかも、それを、神の言葉を受け入れる人たち、洗礼を受け、キリストの弟子となり、キリストのものとされた私たちにも使命として与えてくださいました。あなたに実現した神の言葉を届ける者として、私たちを遣わしてくださいます。
今朝も、主の霊がわたしたちに注がれ、喜びに満たされてこの礼拝でキリストの命をいただき、新しい命によって生かし、ここから1週間の歩み、地域、家庭、社会へと遣わしてくださるのです。
今朝もこの喜びの礼拝に招かれた恵みに、心からの感謝をささげましょう。