カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の真理に立つ

    2026年7月5日
    エレミヤ23:23~32、ガラテヤの信徒への手紙5:2~11
    関 伸子_牧師

     ガラテヤの信徒への手紙第5章は表題に「キリスト者の自由」とあり、1節に「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません」。とあります。その後、ガラテヤの教会の人々が、激しくパウロに批判されていますが、それはなぜでしょう。何よりもキリスト者だからです。信仰を持っているのに、その愚かさのとりこになったまま自由になれないから、パウロは自由への解放をもう一度呼びかけるのです。

     2節から、パウロはガラテヤの教会の人々に警告します。律法主義では割礼が問題になります。割礼はユダヤ民族として生まれた男子にのみゆるされた特権です。割礼を身に帯びた者として、つまり自分は正真正銘の、形の上でも、その他あらゆる意味においても、ユダヤ人としての生活を始めたのだと考える。これはある意味何でもないことです。ただ肉体にちょっと傷をつけるだけのことです。しかし、パウロはこれを、実に重大なことと考えています。それは2節で割礼について書き始めて12節で、「あなたがたをかき乱す人は、自ら去勢してしまえばよいのです」と書いていることでもわかります。割礼は、「民族、男子」というせまい枠でしか考えられていません。しかし、洗礼はキリストにあって、自分に死んで、神に生きるしるしです。それは民族の枠を超えて全人類におよびます。それは聖別を越えてすべての人を目指します。

     パウロはここで割礼を論じ、3節でこのように言いました。なぜ割礼を受けることが問題なのか。「割礼を受けるすべての人に証言しますが、そのような人には律法、全体を行う義務があります」と言いました。9節では、「僅かなパン種が記事全体を膨らませるのです」と記し、今ここで論じていることは決して小さな問題ではない、それを放置していると全体に悪影響を生じると言います。自分を量るだけではない。他人を量ることにおいて上手なファリサイ人にならざるを得ない道を歩む。わたしたちが、どうして自分はこんなに愚かなのだろうと思いながら、そこから本当には自由になれないひとつの理由は、そこでどんなに嘆いても、どんなに悲しんでも、その悲しみや嘆きの姿において律法主義者であることをやめていないからです。

     ガラテヤ人たちは大切な真理を忘れています。キリスト者は「霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます」(5節)。わたしたちは、キリストを信じてすでに義と認められ、神の国の市民である資格を与えられている者なのです。ただし、まだ完全な義をいただいて罪のない義人とはされていないだけなのです。

     7節から12節でパウロは、キリスト者にはキリストにあって神を信じる道しかないと語りました。そして今、パウロは、キリストにあって神を信じるがゆえに、ガラテヤのキリスト者に対する信仰を表します。「あなたがたはよく走っていたのに、誰が邪魔をして真理に従わないように勧めたのですか」(7節)と、福音をないがしろにするユダヤ主義者が彼らを妨げて、真理に従わせなくなったのです。

     そこでパウロはいます。「私は主にあって、あなたがたが別な考えを持つことはないと確信しています。あなたがたをかき乱す者は、誰であろうと、裁きを受けます」(10節)。パウロは確信しています。ガラテヤ人を救われた主イエスが、彼らを再び正しい道に帰らせてくださるに違いない。主が彼らを導いてこの手紙を理解させてくださるであろう。そして律法主義の過ちを悟った彼らは、今度こそ間違ったパン種を取り除くだろう。

     しかし、11節でパウロは、調子を変えて「きょうだいたち」と呼びかけ、自分は異端者とは全く違う立場に立っていることを明言します。パウロは割礼ではなく十字架の福音を宣べ伝えていたのです。そして、そのためにパウロは今なお迫害のただ中にいるのです。十字架は教会のシンボルです。十字架の縦の線は神と人との関係を表し、横の線は人と人との関係を表し、二本の線が交差する点がキリストであるとはよく言われることです。

     パウロは割礼を否定しますが、「十字架の躓き」は否定しません。十字架のキリストを唯一の救済手段とすることが、福音であるから。キリストの十字架を信じ抜くということは、わたしたちの足場を完全に取り払われることです。名誉も地位も賢さも何もなくなる。キリストの十字架だけです。それは決して気分のよいことではありあません。わたしたちにとってむしろ気分のよいことは、キリストと律法とを両方使い分けることです。このキリストとおきての両刃遣いの気分のよさからわたしたちが自由にならなければ、わたしたちが本当の正義に生きることは困難にある。しかしそのことができないのでわたしたちは十字架を殺す。あるいは十字架を語るパウロの言葉を殺すのです。

     だからパウロは言うのです。「十字架によってのみ義とされる望み」を持つには、その望みそのものが信仰によるほかない。そして信仰を更に説明して「霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます」(5節)と語ります。
     8節が言うように「あなたがたを召し出しておられる方」によってこそ、わたしたちにも愛は可能になる。ですから、わたしたちが愛に生きようとする時に、自分に愛する力があるかないかなどということを問う必要は全くないのです。神に召されている、その恵みの事実に生きればよいのです。わたしたちすべてがこの召しにあずかっていることを感謝して受けたいと思います。祈ります。