カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • わたしの心に適う者

    2023年1月8日
    詩編104:24~30、ルカによる福音書3:15~22
    関 伸子牧師

     ガリラヤから多くの群衆がヨルダン川に来てヨハネから洗礼を受けた中に、イエスさまも混じっていました。ヨハネは力強い言葉で悔い改めを求めます。ヨハネは偉大な霊的指導者として現れます。しかし、ヨハネ自身は身の程をわきまえた応答をします。

     ヨハネはこう語りました。「私よりも力のある方が来られる」と「皆に」言う(16節)。「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕(み)がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる」(16b~18節)。

     私たちが今教会で授ける洗礼は、水による洗礼です。私たちが信じていることは、教会が水による洗礼を授ける時に、主イエスがその傍らに立って、聖霊と火による洗礼を授けてくださる、ということです。だから水による洗礼を受けた時に、その人は聖霊を受けます。つまり、全能の神を「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子の霊を受けるのです。そして、その霊の働きによって主イエスと結びつけられるのです。イエスの洗礼は、イエスと共に人々を一度葬り、共に新しい命へと復活させる。聖霊と火による洗礼は人間の力ではなし得ません。この違いは決定的であり、ヨハネはそのことをわきまえていました。

     ヨハネが授けていたのは、罪が赦されることを目的とし、そこに向かって授けられる洗礼です。それは、悔い改めの洗礼、すなわち、悔い改めに基づいた洗礼でした。すなわち世に死んで神に生きる生活態度の表明だったのです。

     さて、悔改めの邪魔をしているのは何でしょうか。それは罪ではありません。邪魔をしているのは、罪そのものではなく、罪を悔い改めようとしない心、罪を認めない心にほかなりません。その悔い改めは、またキリスト者にも必要なのです。同時に、この時ヨハネがメシアの働きとして語ったのが、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われるということです。ここに殻を吹き飛ばす風と、それを焼いてしまう火が出てきますが、雲ということばには風という意味もあって、聖霊を聖なる風というふうに理解することができます。聖なる風が麦と殻を分ける。そして火が殻を焼いてしまう。聖霊と火で洗礼をお授けになるメシアは、そのようにしてこの世を審かれるのだとヨハネは語りました。こういう言葉を聞けば、誰でも恐れを抱くでしょう。しかし、メシアである方、主イエスはそのように私たちを審かれるのでしょうか。主イエスは愛と赦しをもって臨んでくださるのではないのか。

     ここで、ルカが「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」(18節)と書いていることに目を向けたいと思います。ヨハネが告げ知らせたことは、福音でした。中身のない麦でもよいというのは、福音ではないのです。良い実を結ばない木がそのまま残され、殻が麦と一緒に倉に納められるなら、メシアが来てくださる必要はなかったからです。

     今日のルカによる福音書はイエスの洗礼の意味について、詳しい説明はありませんが、何か大切なことを暗示していると思われます。ルカは「さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられる」と(21節)と語っています。民衆の受洗とイエスの受洗が同一線上に並べられています。イエスはメシアだかといって、ご自分を特別な高みに置くのではなく、洗礼を受ける民衆の列に連なり、彼らと一つになられたということを強調したいのです。イエスは悔い改めなければならない人々と同じところにまで下ってきてくださるメシアなのです。そして洗礼を受けてすぐに神に祈っておられる姿が印象的です。

     イエスの受洗は、イエスとイエス以前に洗礼者ヨハネから受洗したすべての民衆とをつなぐ橋であります。橋を渡って人間の仲間となられた神の子が、洗礼者ヨハネから託されたすべての民衆の先頭に立って神への道を行く。
     
     このようにしてイエスはヨハネから洗礼を受けた時、神の愛する子としての明確な自覚を与えられました。それは、イエスにとって、公の伝道生涯への出発に際した神の召命でした。

     このことは、私たちの信仰生活と無縁な出来事ではありません。確かにこれはイエスのメシアとしての特色を示すものですけれども、同時に洗礼という事柄に関して言えば、今日のすべての信仰者にも共通するものがあると言えます。主イエスは聖霊と火で洗礼を授けてくださるというヨハネの言葉は、ペンテコステの時に出来事となりました。弟子たちの上に聖霊が降ってくださり、以後聖霊は教会の中で、私たちを聖なる者にする働きを続けてくださっている。私たちはいつも祈りをもって天と地をつなぐいのちに生き、それゆえの望みの家(教会)になり続けることができるように、そのことを問続けていきましょう。祈ります。