カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の言葉が聞こえるか

    2025年2月9日
    イザヤ書6:8~12、マタイによる福音書13:10~17
    関 伸子牧師
     
     マタイによる福音書第13章には「天の国のたとえ」が七つ集められています。主イエスは「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(3節b)と語り始めます。

     家を出て行く主イエスこそが種蒔く人です。パレスチナでは、まず種を蒔いてからその後で土地を耕します。そのため無駄になる種も数知れず、収穫の率も決して良くはありません。しかし、農夫は豊かな実りを信じて種を蒔き続けます。ある種は道端に堕ち、捕りが来て食べてしまいました。ほかの種は、石だらけで土の救い内所に落ち、そこは土が浅いのですぐに目がでましたが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。ほかの種は茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまいました。ほかの種は良い土地に堕ち、実を結んだ。最初の三つのケースでは神の言葉は受け入れられません。しかし、逆に、最後のケースは、さまざまな良い結果を生みます。主イエスは再び「耳のある者は聞きなさい」と言って、このたとえを結びます。

     このたとえが何を意味しているかは自分で考えて悟りなさいと言われました。神の御言葉の種は私たちの心にまかれています。ここに四種類の土地がありますが、どの土地にも御言葉の種はまかれているのです。ただその違いは御言葉を聞く態度です。

     弟子たちは不安になります。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と主イエスに疑問をぶつけます。10節から17節において、弟子たちの質問い答えて、主イエスはたとえで語った理由を明らかにしておられます。「あなたがたには天の国の秘義を知ることが許されているが、あの人たちには赦されていないからである」とお答えになりました。「たとえ」はヘブライ語でマーシャールという言葉ですが、これは「なぞなぞを解く」という意味にもなります。普通の場合譬えは、分かりにくいことを、分かりやすくするために用いられます。しかし、ここでイエスは、神の国の奥義は、弟子たちには明らかにすることが許されていますけれども、群集には赦されていないので、たとえで語ったのだと言われます。
    「神の国」という言葉を、マタイによる福音書は、できるだけ避けました。そこで、「神の国」の代わりに「天の国」と言いました。「秘義(ムステーリオン)」とは、特定の人にだけ「教える(ムエオー)」事柄を指します。「秘密」と訳してもよい言葉です。しかし、これは、今後もこの秘義が弟子たちだけに限定されることを意味しません。神は自ら定めた時に、神の霊によって人々に自らの秘密を知らせるのです。「天国」、「神の国」とは、私たちが死んでから行く美しい永遠の世界というのではありません。「神が支配なさる」ということです。そして主イエスはここで、すでに第12章において、ご自分が人びとの肉体の病を癒し、み言葉を語っているところ、そこにすでに神の国があると言われました。神の支配が始まっているのです。もっと簡単に言えば、「ここに神が生きておられる」ということです。そして、「神さまらしくふるまっておられる」ということです。その秘密を、見ることができるかどうか、ということがここにおける主題なのです。

     主イエスは、神に向かって頑なに心を閉ざす群衆の姿を、イザヤの言葉を引用して言い表します。イザヤ書では、神が民との間に自ら隔たりを置いて、神を知ることができないようにすると語られています。これはイスラエルに下された罰です。そのような民の中にあって、イザヤだけは神の言葉を託されて神にしっかりと結びつけられます。同じように、天の国の秘密を明かすイエスの「たとえ」を聞いても、心を閉ざす群衆には悟ことができず、それは「謎」となりますが、弟子たちはイエスを見、そして、その真理の言葉を聞いて、天の国の奥義を悟り、ますますイエスに結ばれてゆきます。この違いは、聞き手が「天の国の秘密を悟ること」へと開かれているかどうかによります。それは人間自身の努力によるのではなく、むしろ神の恵みによるのです。だから「悟ることが許されている」(11節)と表現されているのです。

     主イエスは「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」とおっしゃいました。目で見ることができる言葉です。神の真理の言葉。神の国を継げる言葉は、目に見えるのです。どこで見えるのか。簡単です。主イエスにおいて見えたのです。このことを、聖書は繰り返し、繰り返し語りました。ペトロの手紙一第1章8節にこう記されています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています」。ここに「見ていない」と書いています。けれども「見たことはないが、キリストを愛する」と言うのです。つまり、主イエスという方は、弟子たちによって、明らかに見られた存在でした。具体的な、生きた、み言葉でした。だからこそ、私たちは今、主を見なくても愛することができるのです。私たちもまだ主を見てはいないのです。しかし、見える現実として、この世のおられたのです。貧しい者、虐げられたものと共に苦しみを分かち合い、そして、十字架の上で、目に見える形で殺されたのです。そして、目に見える姿で甦えられた主イエス。

     その主イエスは種蒔きのたとえを使って、豊かな収穫を信じて諦めずに宣教するようにと弟子たちを励ましました。その「たとえ」を受け継いだ教会は、いつもイエス様の姿から、「私の目も、私の耳も、キリストに祝福された」という確信を失うことはないのです。そのことによって教会はゆるがずに立つ。みなさんも信じて生きるのです。神は今生きて働いておられます。祈ります。