あなたがたの救いが近づいている
2022年11月6日 創世記18:1~15、ルカによる福音書3:1~6 関 伸子牧師 主イエスが風光明媚なガリラヤで成長しつつあった時、ザカリアの子ヨハネはユダヤの荒れ野で成人していました。荒れた地と澄んだ夜空とが、ヨハネに祈祷と断食を教えました。この荒れ野には、エッセネ派と称される人々が住んでいました。彼らは一日に何度も水を浴びます。しかし、そのような形式的な行為の繰り返しによって、罪の汚れが洗いきよめられるはずがないのです。 ヨハネの洗礼には他の水[…続きを読む]
自由になる、主イエスによって
2022年10月30日 創世記49:8~17、ルカによる福音書11:37~44 関 伸子牧師 福音書記者ルカは、主イエスが食卓に招かれることを繰り返します。主イエスはファリサイ派の人の招きで食卓に着かれます。共に食卓を囲む人々がいる。そこでこそ、これらの人々は互いを知り、出会い、また、反発しました。 「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、驚いた」(ルカ11:38)。具体的には手を洗わなかった(水の中にひたさなかった)か[…続きを読む]
静けさの中に立つ
2022年10月16日 イザヤ書25:1~9、ヨハネの黙示録7:1~17 関 伸子牧師 聖書には、私たちは死後、すぐに主イエス・キリストのみもとに行くと語られている箇所と、死後は眠っていて、キリストの再臨の日、終わりの日に復活して、キリストの御前に立つと語られている箇所があります。しかし、やがて復活して救われるまで眠っているとしても、その眠りも主イエスによる神の恵みの支配の中にあるのですから、どちらも互いに矛盾していません。そして、特に、この終わりの日に[…続きを読む]
福音の希望に生きる
2022年10月9日 創世記32:23~33、コロサイの信徒への手紙1:21~29 関 伸子牧師 今日の箇所の直前に記されていることを読むと、コロサイ教会の人々は、パウロが伝えた福音とは異なる教えに引き込まれる危険にさらされていたようです。そこで、人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事と言われることに気をつけるようにとコロサイの信徒を戒めます。彼らに欠けていることは、キリストの苦難を身に負うことのようです。 主イエス・キリストは、創造と[…続きを読む]
主のいのちの響きに呼応して
2022年10月2日 出エジプト12:21~27、マルコ14:10~21 関 伸子牧師 先ほどお読みしたマルコによる福音書第14章12節以下には、私たちが今日聖餐式として祝っている食事の原型があります。過越の食事を祝うイエスは、既にご自分が人々の手に渡されることを知っていました。それは過越祭に屠られる小羊としてのご自分の姿でした。それはもともとユダヤの過越の食事でした。 過越の祭りはペサハと呼ばれ、真夜中に神がエジプトのすべての初子を殺した時、天幕の柱[…続きを読む]