恵みの中に踏みこむ
2026年9月6日
詩編119:73~80、ガラテヤの信徒への手紙1:1~10
関 伸子_牧師
ガラテヤの信徒への手紙は、パウロの手紙の中で、挨拶の後に感謝の言葉のない唯一の手紙です。いきなり「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と共にいるきょうだい一同から、ガラテヤの諸教会へ」と書き出します。「人々からでもなく」というのは、人間の権威によったのではない、ということです。さらに、「人を通してでもなく」というのは、人間によったものでもない、ということです。人によって使徒にされたのではない、ということです。
パウロがガラテヤを去った後に来た指導者が、パウロが語った福音について、あれは、正しくない、なぜなら、あの男はほんとうの使徒ではないからだ、と言ったに違いありません。そのことがパウロの心にかかる重大なことでしたから、彼は自分の肩書を言う時から、そのことをはっきりさせたいと考えていたのでしょう。それが、ここにあらわれているのです。
これは教会に宛てた手紙ですから、その中には、信仰の弱い人、つき合いにくい人もいるにちがいありません。しかし、そういうことによって結ばれたのではなくて、神の恵みにより、救いによって結ばれているのです。そのことを見なければ、教会のことは分かりません。
そういう教会に宛てたあいさつは3節から5節の言葉でした。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。この神に世々限りなく栄光がありますように。アーメン」。改革者ルターはこう言います。「この二つのものに、恵みと平安とは、キリスト教の一切を含むのである。恵みは罪の赦しを与え、平安は喜びに満ちた安らかな良心を与える。平安は、ただ、罪が赦された時だけ得られるものである」というものです。
恵みと平安とは、どのようにして与えられるのでしょう。それは、使徒といわれる人の説教によって与えられるにちがいありません。それによって教会に与えられました。ガラテヤの諸教会も同じです。与えてくださったのは神です。その神が、救いの御計画にしたがって、イエス・キリストをわたしたちの主としてくださったのです。主とは救いのことです。救い主であるゆえに、わたしたちのすべての生活に対して、主となられ、これを導き守ってくださるのです。このようにして、父なる神とイエス・キリストから、真の助け、救いはわたしたちに与えられるのです。
パウロは、キリストの恵みから離れて「ほかの福音」(6節)にガラテヤの諸教会の人たちが乗り換えようとしていることに驚かされました。不思議でたまらない、あきれ返る、何とも言いようがない。ここにもパウロが自分のきょうだい、信仰のきょうだいたちの姿を見て、本当に堪えがたい思いになりながら、彼らをまず神の教会と呼ぶこともできない悲しみが見えてきます。キリストの救いから離れてしまうならば、十字架に付けられたキリストの福音とは異なるものになってしまいます。それはもはや福音ではなくなります。
あきれ返るというだけではありません。更に先を読んでいくと、8節には、こう書いています。「しかし、私たちであれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせた福音に反することを告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです」。「呪う」というこの厳しい言葉は、本来の意味は「神のもの」というのです。本来すべて「神のもの」なのですから、神に処置をお願いするのです。
10節では、パウロ自身が自己吟味して「使徒」とは何かを述べています。パウロは「人か神か」のどちらにも取り入ろうとしているのかと、自問するのです。「人に取り入る」とは、好意を持たせ、満足を与えて、使徒獲得を目的とすることです。「神に取り入る」とは、福音宣教に仕えて、「神を喜ばせる」ことを目的としているのです。パウロにとって「使徒」と「キリストの僕」(ローマ1:1)は同義的な意味です。神に遣わされた者は、キリストの僕として仕えていく者であるからです。キリスト者の生き方がここにあります。
パウロは後の方で、「ただ愛によって働く信仰のみ益があります」(5:6)と言っています。信仰生活は、たしかに、キリストとの関係が深い生活です。それは、キリストがわたしたちを罪と死から解放してくださった生活です。とすれば、そのキリストの愛を深く知らされているはずです。人を愛し、人に愛された人にはおぼえがあるはずです。愛の生活は限りない喜びと自由を与えてくれるにちがいありません。機会があれば、自分の愛をあらわしたいのです。まさに、愛のゆえの奴隷です。キリストの愛を知れば知るほど、キリストに負うところが大きくなることが分かるのではないでしょうか。それを簡単に言えば、キリストの奴隷になったのです。罪と死の奴隷から、今度はキリストの奴隷になった。
わたしたちは、キリストに救われました。救われたからこそ、キリストと自分は、離れられないものになったのです。自分は、そのキリストの奴隷になったのです。それが、パウロの誇りであり、喜びであり、生活の一切の規準になったのです。
このキリストのしもべとしての歩みを、キリストの恵みの中だけに踏み込んでいく歩みとしたいと思います。そのことによってなお希望をもって、この時代を、共に生きていきたいと願います。お祈りをいたします。