豊かな賜物
2026年7月26日
民数記11:24~29、コリント一12:12~31a
関 伸子_牧師
「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい」。先程お読みしたコリントの信徒への手紙一第12章31節前半でパウロはこう語り、31節後半は第13章につながるものとして捉えています。もっと大きな賜物を求めるようにと促しておいて、「そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示します」と言って、愛がなかったならばすべてがどんなにむなしいかと語っていくのです。
霊の賜物について、この第12章は語り続けています。「霊の賜物」という言葉は、ギリシア語で言うと「カリスマ」という言葉です。「カリスマ」という言葉は、皆さんが良く耳にする、あるいは目にする言葉だと思います。「われわれが今待ち望んでいるのはカリスマ的な指導者だ」と言ったりします。カリスマという言葉を聴くとみなさんは何をお考えになるでしょうか。人並外れた力を持っている。しかもなんとなく神秘的な感じさえする。「どうしてこの人がこのような話をすると人びとは惹きつけられるのであろうか。やはりカリスマ的としか言いようがない」などと考えるのです。このカリスマという言葉は、もともとは霊の賜物を意味しました。神からいただく賜物です。神の霊と密接に結ばれているなら、誰も「イエスは神から見捨てられよ」と言わないし、聖霊との交わりに入っていない限り、誰も「イエスは主」と告白することができません。さらにはカリスマという言葉そのものの意味は「恵みの賜物」と訳してよい言葉なのです。神が恵みを与えてくださる力。その力を27節以下でパウロは改めて数えています。
このようにパウロは、私たちがキリスト者であるということ自体が聖霊の働きによると述べた後に、キリスト者一人ひとりが持っている能力は、すべて聖霊から分け与えられたものだと教えます。パウロは、ここではさらに、はっきりと教会のなかでの賜物として数えています。キリストのからだである教会を造るために、その一人ひとりに与えられている力です。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙においても第3章27、28節で次のように言っています。「キリストに与る洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを来たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです」。キリストのからだといえば理想的なものかも知れませんが、幻のように、実体のないもののように思われるのではなでしょうか。しかし、パウロの時代には、ユダヤ人も、ギリシア人も、奴隷も、自由人も、みな一緒に生活していたのです。今日から考えれば、このことは大したことではないかもしれませんが、当時としては、大変なことでした。ユダヤ人は、自分たちだけが、神の選民である、と考えていました。ギリシア人は、ユダヤ人からは軽蔑されていたかも知れませんが、自分たちに独特な文化を持っていることを誇りとしていました。したがって、彼らには、ユダヤ人とはまた違った誇りがあったでしょう。これらの四種類の全くちがった立場の人びとが、ひとつのところで同じ信仰生活をするのが、教会だったのです。おそらく当時の人の常識からいえば、非常に難しいことであった、と思います。しかし、教会は、そういうことは考えません。これは、キリストのからだであるからです。したがって、信仰によるほかはないのです。
パウロは、ここではさらに、はっきりと教会のなかでの賜物として数えています。キリストのからだである教会を造るために、その一人ひとりに与えられている力です。その力があるから、あるひとは使徒、あるひとは預言者、あるひとは教師、あるいは奇跡を行う者、病気を癒す者・・・・・・とさまざまな務めに生きる。
興味あることに、ここに書いてある言葉を読んでいくと、例えば「援助する者」とか「管理する者」というような言葉が出てきます。教会という共同体があると、どうしてもそれを実務的な管理をしなければならないひとがいたのではないかと思います。皆の共同生活がうまくいくように、取り仕切るひとがいた。そこでここで「援助する者」と語られているのではないでしょうか。皆さんのなかでも、教会のために一所懸命に働いておられる方があるでしょう。会計はあまり得意ではないと思うひともいれば、会計の仕事を軽々となさるひともいます。事務を丁寧になさる方もいます。あるひとはこのこともできる、あのこともできる・・・・・・。神の賜物の配り方、与え方は不平等、不公平であると考えてします。
さらに神は、他より劣っていると見えるところをことさら尊んで体全体の調和を図り、分裂をなくし、各部分が互いにいたわり合ってキリストのからだとしての栄光を現わすことを望んでおられます(22-27節)。またわたしたちは霊的にはキリストのからだという有機的統一体に属しているのであって、一人一人はその器官なのです。ですから一人の問題はまた全体の問題なのです。英語では、歯が一本痛んでも「私(全体)は歯痛(toothache不可算名詞)を持つ」いう表現を使います。指一本がドアにはさまれても、体全体がその痛さに反応します。また自分の細胞の一つが病原菌に冒されたらどうでしょう。その細胞一つのために体全体が悩み、そこに力を集中し、治療のために体全体が作動します。
からだの各器官はそれぞれ使命を持ち、どれ一つを欠いても全体は存在しないのです。大切なのは聖霊と愛です。26節の「一つの部分が苦しめば」と「一つの部分が尊ばれれば」はというのは重なっている言葉です。さまざまな痛み、さまざまな欠けのために苦しんでいるひとを、愛をもって覆う。神様が良く知っていてくださるので、神に委ねつつ必要に応じて仕え合う。これが教会であり、交わりです。神はわたしたちをここへ招いておられます。お祈りをいたします。