カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  •  2022年11月20日
    「弱いときにこそ強い」イザヤ書40:27-31、コリント二12:9,10
    古畑 和彦牧師

     この3月に田園伝道教会を定年退職した古畑和彦です。皆様方の祈りに支えられた35年の伝道師、牧師としての働きでした。心から感謝いたします。牧師の働きは定年退職しましたが、教職者としての働きはまだまだ続きます。引き続きお祈りに覚えていただけたら嬉しく思います。

     今回は、コリントの信徒への手紙二 12章9、10節から、神の導きを頂きたいと思います。この手紙を書いたパウロは、もともとはキリスト教会の迫害者でした。しかし、教会を迫害するためにダマスコに行く途上で、復活したイエス・キリストに出会い、迫害者から一転して、キリスト教の伝道者へ変えられました。それ以降、三回の宣教旅行を行い、多くの人々にキリストを宣べ伝えてきました。しかし、それは決し生易しいものではありませんでした。多くの侮辱、困窮、迫害、そして行き詰まりを経験しました。

     パウロが経験した苦難の中で、最も大きく、かつ深刻であったのは、彼がその身体に抱えてしまった病でした。どのような病であったかは諸説があり、病名ははっきりと分かってはいません。しかし、それは、パウロだけでなく、周囲の者にもつまずきを与えるような深刻な病でした。パウロは、これさえなければ、さらに宣教活動ができ、人々がつまずくこともなくなると考えました。ですから、神にこの病の癒しを繰り返し、必死に祈りました。

     この祈りに、ついに神から答えがありました。しかし、それは、パウロが期待したものとは全く異なっていました。神は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(9節前半)と語られました。つまり神は「私の恵みはあなたに十分であるから、あなたの問題は解決しなくてもいい」と語られたのです。パウロは、病の苦痛から救い出されることを願ったのに、神はその苦しみの中で働いてくださるというのです。

     パウロは、この神の答をすぐには受け入れらなかったのではないかと思います。かなりの葛藤と時間的経過があったことでしょう。しかし、パウロは「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節後半)と受け入れます。置かれた状況を諦めて仕方なく、受けとめた、というのではなく、本当にこれで良かったと「大いに喜んで」いるのです。そのうえで「私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(10節)と告白しています。

     往々にして、私たちは鈍感な「強者」として生きています。気がつくと、他者の痛み・苦しみに思いを馳せることを忘れています。しかし、期せずして遭遇する試練を通して、神に新たに出会う、自分の生き方を見つめ直す、そうした機会が与えられます。パウロもまた、確実に強者として歩んでいました。ユダヤ教の熱狂的信者で、キリスト教会迫害の先頭に立っていた時も、また回心して伝道者となり、次々に宣教旅行をおこない、各地に教会を建てていた時もまた確実に強者でした。しかし、一転して深刻な病を抱えることとなり、深い悩みの淵に落とされます。逃れようのない厳しさのなかで、自分の欠けや弱さだけを見つめざるを得ない時に、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」との御言葉に出会ったのです。そして、癒されない病を抱えつつも、新しい力を得て使命に歩み続けました。同じ御言葉は、私たち一人ひとりにも語り掛けられています。

     私たちの弱さは、キリストの恵み、キリストの力が現われる契機となることを覚えましょう。「なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」。この週も、「弱い」私たちのうちに、神の恵みは、豊かに注がれます。恐れることなく、大胆に歩み出しましょう。「私は、弱いときにこそ強い」のですから・・・・・・。

     「よろこびが集ったよりも 悲しみが集った方が しあわせに近いような気がする
    強いものが集ったよりも 弱いものが集った方が 真実に近いような気がする
    しあわせが集ったよりも ふしあわせが集った方が 愛に近いような気がする」
    (星野富弘『風の旅』より)。