神に愛されている者として
2021年9月19日 詩編119:33~40、エフェソ5:1~5 関 伸子牧師 パウロがエフェソとその近辺の諸教会に宛てて獄中から書いたエフェソの信徒への手紙の第5章1節は、「ですから」と、一つの区切りを示しながら、「神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい」と記す。「神に倣う」いう表現を聞いてみなさんはどう思われますか。私は特異な感じを受けます。新約聖書ではここにしか出てきません。 「倣う」という言葉は、「まねる」、つまりイミテーション(模造品)ですけれ[…続きを読む]
赦し合うために
2021年9月12日 詩編15:1~5、ヤコブの手紙2:8~13 関 伸子牧師 「聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も貴い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」とヤコブの手紙第2章8節は記す。「あなたは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という律法は、レビ記第19章18節からの引用であり、このレビ記第19章では、かつてイスラエルの民がエジプトで寄留者であったことに言及され、寄留者を同胞の者と同様に愛することが命じら[…続きを読む]
小さな者を愛される主イエス
2021年9月5日 エゼキエル37:15~28、マタイ118:10~20 関 伸子牧師 マタイによる福音書第18章の10節から14節で「一匹の迷い出た羊」のたとえとして、主イエスが「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10節)と語り始める。その結びで「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」(14節)と述べます。そして15節以降では、罪を犯した「きょうだい(教会員)」に対して[…続きを読む]
家族をつなぐもの
2021年8月15日 創世記24:62~67、マタイ12:46~50 関 伸子牧師 主イエスが群衆に話しをしておられる時、イエスの母マリアと兄弟たちが話したいことがあって、イエスのもとにやって来たて外に立っていました。彼らは外から人をやって主イエスを呼びつけようとしました。彼らの用件はここには明示されていませんけれども、並行記事のマルコ福音書第3章21節によれば、人々がイエスは気が変になっていると言っているので、心配して、イエスを連れ戻しに来たのでした。[…続きを読む]
一歩を踏み出す力
2021年8月8日 詩編57:2~12、マタイ10:16~25 関 伸子牧師 私たちは8月を特に平和を覚える時として過ごしています。この日(8月8日)をはさむ8月6日は広島、8月9日は長崎の原爆記念日です。私たちは現在、コロナ禍のなかにはありますけれども、それでも戦争のない平和な日々を過ごしています。しかし、一瞬にして日常が崩壊することも歴史を通して私たちは知っています。 主の平和を告げ知らせる者の道も絶えず困難が待ち受けています。主イエスは弟子たちの[…続きを読む]