主イエスに遣わされて生きる
2022年7月3日 アモス書7:10~15、マルコ6:1~13 関 伸子牧師 宣教への派遣は、神による御業です。それは、自分の意志や願望によるものではなく、神の召しによる派遣です。預言者アモスは、神の御声を聴いて召しを受けました。預言者でも、預言者の弟子でもなく、単なる農夫にすぎないアモスですけれども、神が彼を「取り」(アモス7:15)ました。ここでの「取る」は「選びだす」の意味ですけれども、「選ぶ」と言わずに、「取る」を用いたのは、一介の農夫を預言者と[…続きを読む]
神の力強い恵みの勝利
2022年6月26日 サムエル記上16:14~23、マルコによる福音書5:1~20 関 伸子牧師 主イエスによるゲラサ人の癒しの物語で、汚れた霊に取りつかれた人は住む家を失っていました。この人は「墓場を住みかとしていた」と記されています。こうしたところに身を隠さないではいられない特別な事情があったのです。この人にはプライドだけが残っていたのかもしれません。他人の哀れみを受けるのが耐え難い苦痛だったのかもしれません。人びとが足枷や鎖で押さえつけようとしたの[…続きを読む]
平安への招き
2022年6月12日 申命記6:4~9、ローマの信徒への手紙8:12~17 関 伸子牧師 主イエスが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声を聞きました。それはイエスが「神の子」であることが世にあらわされた場面です。神の子であるイエスは、十字架を前にしたゲッセマネの園で祈られました。一緒に連れて来た3人の弟子たちは眠りこけてしまって、主は、ただ一人で、十字架の苦しみについて、父なる神への信頼[…続きを読む]
霊が語らせるままに
2022年6月5日 ヨエル書2:23~3:2、使徒言行録2:1~13 関 伸子牧師 今日、私たちはペンテコステ礼拝をささげています。「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1~3)。 これはただ「来て」ではなく、「満ちて」というカイロス(決定的な時)の到来としての描写です。使徒たちは、5[…続きを読む]
私たちのために祈る主イエス
2022年5月29日 イザヤ書45:1~7、ヨハネによる福音書17:1~13 関 伸子牧師 今日、私たちが読むヨハネによる福音書第17章は、主イエスが告別の説教を終えて、最後に父なる神に祈る、大祭司の祈りと言われています。「イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた」(1節)。主イエスが残される弟子たちのために、十字架につけられる前に、神へのとりなしの祈りをされました。ここは、「イエスはその眼を天に上げて言われた」と直訳できます。この訳から主[…続きを読む]